ずっと前になるが、娘の入学式に参加したことがある。
そこの校長先生はユニークな人で、学校で教育しなければならないものは3つあると訓示した。ひとつは社会生活に必要なルールを教えることであり、ふたつ目は社会で独り立ちして生きて行くための術(飯のタネ)を教えることであり、最後によりすばらしい人生を送るための学問を教えることである。私は確かにその通りだと納得して聞いていた。ところが今の教育は3番目の「学問」ばかりに偏重してしまっている。そのために教育される側は現実感を失っているところがある。大人側から見れば「甘え」に映るが、子供側から見ると自由奔放に育てられ、何でもかんでもやり放題、生きる苦労をする必要もないし、困ったときは親もしくは社会から守ってもらえるようになっている。こんな中で「甘えるな!」と怒っても仕方ないと思う。
どうすればいいのか正解はすでに解っているはずである。
前述の校長先生の訓示にある通りである。一番目の社会生活に必要なルールと二番目の社会で独り立ちして生きて行くための術(飯のタネ)を学校教育で、家庭教育で、職場教育で、社会教育で教えて行くことである。学問だけに偏重している現在の教育を見直すことである。そこにあるのは努力することや我慢することや自立することや協調することや個性を発揮することや自分を見つめることや社会における自分の位置を確認することや自分なりの価値観を育てることや社会に役立ち感謝されるような能力を身につけることであろう。これらは「学問」とはあまり関係ない。「学問」を極めた「学者」や「研究者」や「専門家」ばかりを育てても仕方あるまい。
日本において大学は金科玉条のものではなくなりつつある。
いくら「学問」を極めても一番目と二番目がおろそかでは人間としては失格であるし、「学問」に偏重した「学者」や「研究者」や「専門家」はほんの一部でいいし、その素質のある者だけで良いはずである。全員が「学問」に偏重する必要はさらさらない。「学者」や「研究者」や「専門家」の素質のない者が一番目と二番目をおろそかにして「学歴」だけで生きて行こうと言うのは大いに問題があるが、どういう訳かそれが通用していたのがこれまでの「学歴社会」である。そしてその「学歴社会」も崩壊しつつある。あるべき姿からすると喜ばしいことである。
社会を支えているのは「学者」や「研究者」や「専門家」ばかりではない。
これらの人は特化された部分の最先端かも知れないが、それを支えているのはそれ以外の人達であり、当然それ以外の人達がいなければ最先端だけでは存在し得ないのが「学者」であり「研究者」であり「専門家」である。確かに最先端の人達は社会を発展させるために必要であるし、永続的に育てていく必要があるが、これらは全体からするとほんの一握りの天性の才能を持った人達である。その他大勢の人達がその一握りの人達を育てるための犠牲になって、なおかつ最先端になれなかったからと落伍者扱いされたのでは救いようがない。その他大勢の人達も立派に社会に役立ち場合によっては最先端の人達以上の成果を上げることができるのである。
社会におけるルールを教える教育が下火になったのは何故だろう。
「道徳」と言う言葉が死語になりつつある。「道徳」を教える先生もいなくなっている。教えるべき「道徳」そのものが消えつつある。それでは「道徳」に変わるべきものが現在の教育でなされているかと考えてみると何もない。強いて言えば「規則」である。何でもかんでも規則で縛って規則違反を取り締まることによって「社会におけるルール」を教えようとしている。規則を無理矢理守らせることが目的になっている。「道徳」とはそんなものではないだろう。「規則」の根底を流れる精神そのものを教えるのが道徳であろう。規則を一方的に押しつけても反発されるだけであり、逆に反発するのが自然で正常な反応である。教えられる方は「道徳」を求めているのである。これをいくら力で押さえ込んでも問題は何も解決しない。「道徳」が古くさいものと思い込んでいるのは教える側の偏見であり、人間の精神や心そのものに古いも新しいもないはずである。
手に職を持つことが軽んじられるようになったのは何故だろう。
人は現実に生きている。夢の世界に生きているわけではない。そうであれば生きるための術(飯のタネ)を身につけることは最低限必要なことである。そして自立できる手段をあらかじめ確保した後で豊かな人生を追求することになる。夢を実現するためには現実を生きなければならないのである。しかも人生は長いのである。この長い人生を自立して生きていかなければならない。その現実の厳しさを教育しているだろうか、疑問になってくる。現実の厳しさから目を背けて逃避しているがごとき人種が増えているし、これを安易に許容してしまっている社会がある。「生きる」ことにあくせくすることが「ダサイ」という今の若者の風潮があるが、これは根本から考え直すべきであろう。
獅子は我が子を千尋の谷から蹴落とすという。
我が子に生命の危険さえもあり得る試練を課して鍛え獅子としての自立した実力と風格を身につけさせる。甘えや依存体質を持ち続ける限りは自立もできないし実力や風格が身につくはずもない。子供の教育において、どこかで甘えや依存体質を断ち切らなければならないと思う。それは徐々にである場合もあるだろうし、一挙にである場合もあるだろうし個人の特性に応じて様々であるし、様々であるべきである。しかし、甘えや依存体質を断ち切る要素は常に持ち続ける必要がある。もっとすばらしいのは子供が成長し最終的に「自ら」甘えや依存体質を断ち切ることである。これこそが「自立」である。
今、世の中は不況で若者は就職難の時代である。
大学を出ただけという「学歴」だけでは就職が困難になっている。「学歴」でなく「実力」がものを言う時代になりつつある。「あなたは人のため会社のため社会のため国のため何ができるんですか?」が問われる時代になりつつある。本来の姿であり喜ばしいことであると思う。そして教育そのものも変わりつつある。前述の一番目と二番目も重視した全人的教育の必要性が叫ばれている。そして教育に現実的な厳しさが戻りつつあるという気がする。「遊び」も確かに大事だが、全てが「遊び」であっては主体である本質がなくなってしまう。最先端と思い込んで突っ走っていた主体と本質を見失った現在の教育はそれこそ今となっては時代遅れであり大いに見直す必要があると思う。
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