この前、職場の人と話していたら成人式の話になった。
以前お子さんが成人式で成人式会場に一緒に出かけた時のことであった。驚いたのは女性がほとんど着物姿だったということである。きらびやかな着物に日本髪、フワフワの鳥の羽のショール、耳には携帯電話というのが一般的な成人式における女性の出立ちであるらしい。まるで着物の品評会で、着物を準備できなかった女性は成人式に参加できないのではないかという勢いであったらしい。みんな申し合わせたように着物の柄は違うが同じ格好をしているのに唖然としたそうである。
普通のスーツ姿の女性は数えるぐらいしかいなかったそうである。
たまたまお子さんの友達がスーツ姿で、話を聞いてみると、4年制の大学に在学中で、ただでさえ親に迷惑をかけており、学生の身分であるのでスーツで参加したとのことで、何のためらいもなく颯爽として堂々としたスーツ姿にかえってすばらしい個性を感じたという話である。すでに社会人で仕事に追われて成人式どころではない人も多いのだから、参加できるだけでも幸いであるが、このノーテンキな着物姿は何だろうと首をかしげてしまう。
成人式とは、若者が大人の仲間入りをすることであり、
一人の社会人として自立する出発点でもある。果たしてあのきらびやかな着物は誰が買っているのであろう。着物は高価なものである。これを自分で買って着ているのであれば二十歳の分際で見上げた独立心である。着物なんて着る機会は少ないのだから、家族や親戚知人の借り物かお古または貸衣装であればある程度納得もゆくが、目にするのはほとんどが最新流行の新品である。その金の出所が全部親である場合、これは七五三の延長でしかない。「成人」「大人」「社会人」「自立」という言葉はいっぺんに吹っ飛んでしまう。成人式なんてちゃんちゃらおかしい。
どうして子供のためにこのように盲目的に金をつぎ込むのであろうか、
私には理解できない。この話題の主は米国滞在の経験が豊富で米国の家庭の実状を話してくれた。米国ではこのようなお金を子供につぎ込むようなことは一切しないそうだ。子供には最低限の物と必要なお金を渡すだけで、子供はこれを当然としてせっせと芝刈りやベビーシッターなどをして自分の小遣い稼ぎをしている。いくら子供であっても労働の報酬としての賃金でしか「金」が手に入らない。一方的に物がもらえるのはプレゼントの時くらいであるがこれも基本的にはギブアンテイクである。日本みたいに全く一方的に身分不相応な施しを子供にするのは奇異な目で見られる。近頃は、中国が一人っ子政策から子供を必要以上に大切にしているそうだ。特に上流家庭では子供は最上級の神様扱いで、甘やかすだけ甘やかして欲しがる物は何でも買い与える。これも困ったもので、何年後かにこの子供が一人前に成人した時のことが思いやられる。
話はさらに飛躍して米国の主婦感覚に及んだ。
米国の主婦は無駄な金は一切使わないそうだ。その節約ぶりは徹底している。例えば、広告についている割引の「クーポン」であり、米国の主婦はこれを丁寧に切り取って束にしてお札同様に持ち、スーパーなどできちんと使っているそうだ。日本人感覚からすると「そんな面倒くさい」と思うが、米国ではみんなまじめにきちんとやっているそうだ。クーポンの利く品物をいちいち捜し回るのも大変だ。当然レジは混雑し行列ができる。それでも文句を言わずじっと並んで待っているそうである。その人の奥さんがレジで店員に「クーポンは?」と聞かれて「ありません」と正直に答えたら怪訝な顔をされたそうである。
要するに、米国人は無駄なお金は一切使わないことが主題である。
日本も米国を真似してか、時々広告にクーポンがついてくるが、ほとんど使われないまま捨てられているのが実状のようだ。少なくとも、レジでクーポンのために行列ができるのは見たことがない。こんなはした金にケチケチするのはプライドが許さないのであろうか。それとも、日本が裕福で金が有り余っているのであろうか。広告主も宣伝効果を期待してクーポンを印刷しているだけで、米国のような真剣さは求めていないようである。日本の場合、レジで大量のクーポンを出していちいち買い物をしたらかえって奇異な目で見られることであろう。
米国のバケーションはスケールが大きい。
何ヶ月も休暇を楽しむ。しかし、その中身を見ると、トレーラーを引いての長期のキャンプ生活が一般的なもので、日本人にすると羨ましい限りであるが、その実は交通費と宿泊費の節約が目的で、キャンプ地でも釣りやバーベキューや静かに読書するくらいの質素な過ごし方でゆっくりと休養を楽しんでいる。日本の休暇は短期間ではあるが交通費も宿泊費も大盤振る舞いで、飲めや唄えの大騒ぎ、買い物しまくり、遊びまくりでここぞとばかりに(無駄な)金を使いまくる(挙げ句の果て休暇明けは疲労困憊状態)。面白い対比である。
以前、米軍基地の近くに住んでいたことがある。
粗大ゴミの日に、多くの外国人が車で集積場を見回って使える物を物色している。コジキでも貧乏人でもない、普通の立派な紳士と淑女が堂々と当然のごとく淡々と掘り出し物を捜している。これが米国人の合理的な考え方だなあと感心させられたものである。米国内でも同様であるらしい。盛んにガレージセールが行われているそうだ。がらくたであろうと関係ない。必要な人にとっては「宝」であり、三々五々各家のガレージセールを回って必要な物を安く調達している。お互いハッピーな催しである。日本でも最近のみの市が盛んになったが、半分商売にしているような人がほとんどで気楽な個人のガレージセールはまだ少ないようだ。
我々は子供に対し意味不明の甘やかしをしてはいけない。
愛情と盲目的な施しとは別である。他人のことに口出しするつもりはないが、成人式参加のほとんどの女性がきらびやかな着物姿を披露しているのを見ると尋常でない何かを感じる。ひとつは、親の子供に対する愛情のかけ方であり、もう一つは「みんなと同じ=平等」という考えである。前者は、戦前戦後の物不足を経験した世代の「自分の子供には不自由させたくない」という思いやりからであろうか?後者は、若者の自立心の欠除であろう。自立心のないところに個性も存在価値もない。見よう見まねでみんなの模倣をするのが精一杯である。周囲の同僚と同じでなければ落ち着かない。「学ぶ」の初歩の「真似ぶ」から脱却していない。それで良いと思っているところにも問題がありそうだ。
成人式にきらびやかな晴れ着を着なければならないという思い込みは、
いつから始まったのだろう。私の成人式の時も盛んだったのを記憶している(ちなみに私は学生服で参加した)。親の見栄か子供の甘えか、それとも伝統的な風習であろうか?みんなが成人を祝しておめでたいと喜んでいる時に水を差すのは気がひけるが、形だけの成人よりも本当の成人を祝う行事としたいものである。甘やかす親が悪いのか、いつまでも甘える子供が悪いのか知らないが、訳の解らない甘やかしが自立のできない子供を育てているのは間違いなさそうである。
以前お子さんが成人式で成人式会場に一緒に出かけた時のことであった。驚いたのは女性がほとんど着物姿だったということである。きらびやかな着物に日本髪、フワフワの鳥の羽のショール、耳には携帯電話というのが一般的な成人式における女性の出立ちであるらしい。まるで着物の品評会で、着物を準備できなかった女性は成人式に参加できないのではないかという勢いであったらしい。みんな申し合わせたように着物の柄は違うが同じ格好をしているのに唖然としたそうである。
普通のスーツ姿の女性は数えるぐらいしかいなかったそうである。
たまたまお子さんの友達がスーツ姿で、話を聞いてみると、4年制の大学に在学中で、ただでさえ親に迷惑をかけており、学生の身分であるのでスーツで参加したとのことで、何のためらいもなく颯爽として堂々としたスーツ姿にかえってすばらしい個性を感じたという話である。すでに社会人で仕事に追われて成人式どころではない人も多いのだから、参加できるだけでも幸いであるが、このノーテンキな着物姿は何だろうと首をかしげてしまう。
成人式とは、若者が大人の仲間入りをすることであり、
一人の社会人として自立する出発点でもある。果たしてあのきらびやかな着物は誰が買っているのであろう。着物は高価なものである。これを自分で買って着ているのであれば二十歳の分際で見上げた独立心である。着物なんて着る機会は少ないのだから、家族や親戚知人の借り物かお古または貸衣装であればある程度納得もゆくが、目にするのはほとんどが最新流行の新品である。その金の出所が全部親である場合、これは七五三の延長でしかない。「成人」「大人」「社会人」「自立」という言葉はいっぺんに吹っ飛んでしまう。成人式なんてちゃんちゃらおかしい。
どうして子供のためにこのように盲目的に金をつぎ込むのであろうか、
私には理解できない。この話題の主は米国滞在の経験が豊富で米国の家庭の実状を話してくれた。米国ではこのようなお金を子供につぎ込むようなことは一切しないそうだ。子供には最低限の物と必要なお金を渡すだけで、子供はこれを当然としてせっせと芝刈りやベビーシッターなどをして自分の小遣い稼ぎをしている。いくら子供であっても労働の報酬としての賃金でしか「金」が手に入らない。一方的に物がもらえるのはプレゼントの時くらいであるがこれも基本的にはギブアンテイクである。日本みたいに全く一方的に身分不相応な施しを子供にするのは奇異な目で見られる。近頃は、中国が一人っ子政策から子供を必要以上に大切にしているそうだ。特に上流家庭では子供は最上級の神様扱いで、甘やかすだけ甘やかして欲しがる物は何でも買い与える。これも困ったもので、何年後かにこの子供が一人前に成人した時のことが思いやられる。
話はさらに飛躍して米国の主婦感覚に及んだ。
米国の主婦は無駄な金は一切使わないそうだ。その節約ぶりは徹底している。例えば、広告についている割引の「クーポン」であり、米国の主婦はこれを丁寧に切り取って束にしてお札同様に持ち、スーパーなどできちんと使っているそうだ。日本人感覚からすると「そんな面倒くさい」と思うが、米国ではみんなまじめにきちんとやっているそうだ。クーポンの利く品物をいちいち捜し回るのも大変だ。当然レジは混雑し行列ができる。それでも文句を言わずじっと並んで待っているそうである。その人の奥さんがレジで店員に「クーポンは?」と聞かれて「ありません」と正直に答えたら怪訝な顔をされたそうである。
要するに、米国人は無駄なお金は一切使わないことが主題である。
日本も米国を真似してか、時々広告にクーポンがついてくるが、ほとんど使われないまま捨てられているのが実状のようだ。少なくとも、レジでクーポンのために行列ができるのは見たことがない。こんなはした金にケチケチするのはプライドが許さないのであろうか。それとも、日本が裕福で金が有り余っているのであろうか。広告主も宣伝効果を期待してクーポンを印刷しているだけで、米国のような真剣さは求めていないようである。日本の場合、レジで大量のクーポンを出していちいち買い物をしたらかえって奇異な目で見られることであろう。
米国のバケーションはスケールが大きい。
何ヶ月も休暇を楽しむ。しかし、その中身を見ると、トレーラーを引いての長期のキャンプ生活が一般的なもので、日本人にすると羨ましい限りであるが、その実は交通費と宿泊費の節約が目的で、キャンプ地でも釣りやバーベキューや静かに読書するくらいの質素な過ごし方でゆっくりと休養を楽しんでいる。日本の休暇は短期間ではあるが交通費も宿泊費も大盤振る舞いで、飲めや唄えの大騒ぎ、買い物しまくり、遊びまくりでここぞとばかりに(無駄な)金を使いまくる(挙げ句の果て休暇明けは疲労困憊状態)。面白い対比である。
以前、米軍基地の近くに住んでいたことがある。
粗大ゴミの日に、多くの外国人が車で集積場を見回って使える物を物色している。コジキでも貧乏人でもない、普通の立派な紳士と淑女が堂々と当然のごとく淡々と掘り出し物を捜している。これが米国人の合理的な考え方だなあと感心させられたものである。米国内でも同様であるらしい。盛んにガレージセールが行われているそうだ。がらくたであろうと関係ない。必要な人にとっては「宝」であり、三々五々各家のガレージセールを回って必要な物を安く調達している。お互いハッピーな催しである。日本でも最近のみの市が盛んになったが、半分商売にしているような人がほとんどで気楽な個人のガレージセールはまだ少ないようだ。
我々は子供に対し意味不明の甘やかしをしてはいけない。
愛情と盲目的な施しとは別である。他人のことに口出しするつもりはないが、成人式参加のほとんどの女性がきらびやかな着物姿を披露しているのを見ると尋常でない何かを感じる。ひとつは、親の子供に対する愛情のかけ方であり、もう一つは「みんなと同じ=平等」という考えである。前者は、戦前戦後の物不足を経験した世代の「自分の子供には不自由させたくない」という思いやりからであろうか?後者は、若者の自立心の欠除であろう。自立心のないところに個性も存在価値もない。見よう見まねでみんなの模倣をするのが精一杯である。周囲の同僚と同じでなければ落ち着かない。「学ぶ」の初歩の「真似ぶ」から脱却していない。それで良いと思っているところにも問題がありそうだ。
成人式にきらびやかな晴れ着を着なければならないという思い込みは、
いつから始まったのだろう。私の成人式の時も盛んだったのを記憶している(ちなみに私は学生服で参加した)。親の見栄か子供の甘えか、それとも伝統的な風習であろうか?みんなが成人を祝しておめでたいと喜んでいる時に水を差すのは気がひけるが、形だけの成人よりも本当の成人を祝う行事としたいものである。甘やかす親が悪いのか、いつまでも甘える子供が悪いのか知らないが、訳の解らない甘やかしが自立のできない子供を育てているのは間違いなさそうである。
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