この前、犬を散歩させている時、私の目の前で車が止まり、
窓が開けられると同時に、30歳くらいの男性が火のついたタバコを(さもカッコ良く)外に投げ捨て窓越しに道を尋ねた。その行動にカチンときたので、「無造作にタバコを投げ捨てるような人には教えられません」と言ったら、怒った顔をして無言で走り去っていった。一時の腹立ちでイヤミな苦言を言ってはみたものの初対面でもあり、たかがタバコの投げ捨てで逆ギレされ暴力沙汰にでもなったら損をするだけだなと一瞬後悔したが、あとの祭りである。
しかし、タバコの投げ捨てをする人は「たかがタバコの投げ捨て」でも、
その場ではその人の人格と品性が疑われていることを肝に銘じてもらいたい。「そんなもので人格と品性を疑われたのではたまらない」と反論する人がいるかも知れないが、私にとっては初対面であり、その場の行動から推測した情報だけしかなく、申し訳ないがそう思うしかない。それ以外どう思えと言うのだろうか。ゴミのポイ捨て、マナー違反、迷惑行為、違法行為、当然犯罪行為も同じである。「恥のかき捨て」のつもりかも知れないが、少なくともその瞬間は周囲から人格と品性を疑われ、とても恥ずかしい立場にあることを気づいてもらいたい。
よく町中で、さもカッコよく無造作にタバコを投げ捨てる姿を目にする。
本人は「カッコいい」と思っているかも知れないが、周囲はその迷惑に眉をひそめているのである。誰がその吸い殻を掃除すると思ってやっているのかとその軽率さと無神経さに腹が立ってくる。横断歩道で停車中の車からタバコの投げ捨てを目撃した時、「落としましたよ」といってその吸い殻を車の中に投げ入れたという武勇伝の持ち主(驚くことに女子高生)がいると聞いた。その心意気に感心するとともに、心がスカッとする。どうやらカッコいいタバコ投げ捨ての仕草はテレビや映画に登場するスターの影響のようだ。本人達の頭の中はこのカッコいい場面の主人公になりきっているようである。虚構の世界と現実の世界の区別もつかない頭の構造のようである。
テレビや映画のスターのカッコいいタバコ投げ捨ての仕草は、
体制に反抗する主人公(だいたい型破りの破天荒な革命児が多い)の役造りのため無法者または無頼漢の印象を強くする効果を期待した「演技」であり、あくまでテレビや映画という虚構の世界の行為である。現実はこんなことは許される行為ではない。そこのところをよくわきまえて行動してもらいたい。映画の中で「カッコいい」タバコの投げ捨てを周囲の人に注意されたり、通行人に「落としましたよ」と言われたのでは喜劇になってしまう。虚構である証左である。
こう言われてもタバコの投げ捨てを止めないのであれば、
その人は周囲の人から映画の主人公と同じ「無法者」または「無頼漢」として判断され、ポイ捨て条例違反の「犯罪者」として扱われても仕方ない。世の中そんなに甘くないし、現実は虚構の世界とは違う。現に誰かがタバコの投げ捨てをすれば、誰かがそれを片づけなければならない。投げ捨てる人は無神経にその誰かに甘えているだけである(テレビや映画の場合は撮影後スタッフがせっせと吸い殻を片づけていると思うが・・・)。テレビや映画の暴力シーンも同じである。人間関係の恨みや辛み、怒りや憎しみを表現する究極の手段として暴力シーンや残虐シーンがある。その背景や感情の縺れ合いを理解せず、残虐な暴力シーンだけを特化するのは間違っている。
制作する側も興味を引くためだけに残虐な暴力シーンを、
ふんだんに使うのは考え物である。こういうシーンは効果的に使ってこそ価値があるものであり、最初から最後まで残虐な暴力シーンではサド、マゾ、スプラッター、オカルトマニア向けのゲテモノであり駄作であり優れた作品とは到底言えない。見る側もあくまでテレビや映画の中での虚構の世界であることを認識しなければならない。
虚構と現実の区別がつかない人は精神的に未成熟な人か病んでいる人である。
それは現実の世界を直視していない人でもある。虚構の世界は空想の世界であり、いくら思いを巡らしても外部に対して影響はない。しかし、その虚構の世界を現実の世界にそのまま持ち込んだときは大混乱が起きる。本当にそれを現実の世界で無思慮に実行しようとする人は「狂人」である。少なくとも「常人」は現実的な行動を起こす場合、その影響と効果をよく考え冷静に判断する段階を経る。
「狂人」とまでは言わないが、
これに似た行動をしている人が多いのには困ったものだが、これを放置してはいけない。少なくとも自分に害の及ぶ範囲について意見するのは当然の権利であり反省し是正してもらわなければならない。世の知識人と言われる人達は「虚構の世界を見せる人が悪い」と言うが、私はそう思わない。狂人でない限り虚構と現実の区別のつかない人のほうが悪い。もし、虚構を見せる人が悪いとすれば、一方的、強制的かつ暴力的に見せるつける場合であり、個人の自主性に任されている以上は見る側の自由であり見せる側に責任はない。
四六時中朝から晩まで残虐な暴力シーンを大衆に向け流しっぱなし、
というのは「暴力」であり「公害」である。これは大衆の感覚を麻痺させ、残虐な暴力を日常的なものとして錯覚させ、現実行動に起こす場合の歯止めをなくす効果があり、考え直す必要があるのは認める。過去にもマスメディアを使った「情報操作」の例は数多く、現在も多かれ少なかれ行われているであろう。しかしこれも故意にかつ計画的に作為しないとできるものではない。果たして今現在誰が残虐な暴力シーンを故意かつ計画的に作為すると言うのであろうか?金儲け主義の無思慮な行為がたまたま結果的にこのような現象を起こしているという見方はあるが、この場合も反省すべきは金儲け主義に乗せられ騙される大衆の方である。
好ましくないと言うならば、その「好ましくない」という価値観を、
見る側に教え込まなければならない。当然、未成熟な年代に対し無差別に「好ましくない」虚構の世界を見せつけるのは制限されるべきであろうが、隔離してしまったのでは免疫は育たない。難しいところだ。過去に騙された経験のある大衆が「騙されないように改善して欲しい」と望むのは何かおかしい。誰に望んでいるのか?過去に騙した実績のある張本人(国)にである。大衆は個々に騙されないような努力をしなければならない。それが第1番である。少なくとも過去に騙された経験があるなら今度は騙されないようにしようと考えるのが普通である。他人任せの無関心であってはならない。
タバコの投げ捨てはほんの些細なことではあるが、
これが無思慮に行われまたこれが安易に無関心の中で見過ごされている一面を見ただけでも社会が病んでいるひとつの兆候と言える。「誰かに改善して欲しい」と望むのは何かおかしい。改善のため具体的に行動する基本は個人である。これを見過ごして目をつぶることは社会の病理を悪化させるだけである。その原因はどこかで断たなければならない。
このような公徳心を育てるのに効果的なのは、
家庭や学校や地域社会での青少年に対する若年時のしつけ教育である。大人になってからのしつけ教育は暴力沙汰になりかねない。少なくとも素地があればまだ可能だが全くの白紙では到底無理だ。また、一方的な「きまり」を教える「しつけ」ではなく、社会性を育てる発展的な「しつけ」であって欲しいことも付け加える。
危険を顧みず「イヤミな苦言」を投げかけた小生のタバコ投げ捨て指摘事件は一応何もなく終わったが、これからも同じような事件が永遠に続くと思うと憂鬱である。時には勇気を欠いて、時には先を急ぐため見過ごさざるを得ない場合もあるだろうが気持ちだけは前向きでありたい。
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