修行僧が無の境地になるため様々な修行を積む。
何のために無になるのかを考えてみると、一番中立な状態が無なのかもしれない。プラスでもないしマイナスでもなく、善でもなく悪でもない、あらゆるベクトルで偏向することなく中立の状態を保つのが無かもしれない。この状態はいかなる者も受け入れることができて、いかなる者にも対応できる無限の可能性を秘めている。まさに神の境地に近づくものだと思う。無とは無限大空間の一点に集約することではないだろうか・・・。この点には質量も時間も距離もないが、その点は無限小の世界に通じている。この一点を介してまた無限大の世界が広がっている。
「無」とは全く何もないことではない。
全てのものを吸収し、強烈なエネルギーを保有している。宇宙のブラックホールの如き存在だと思う。外界の何者にも捕われない世界でもある。外界の影響を何も受けない。外界を遮断した別の世界が広がっているのだと思う。外界に何の影響も与えないし、外界からの影響は全て吸引して何の反作用もない。外界からは手の出しようがない。それだけの強さを持っている。無の境地は無敵なのである。無の境地には果てしないエネルギーを感じる。だからこそ修行僧が無の境地を追求するのだろう。
通常の生活の中で無の境地になる瞬間があるかと考えた。
私の経験から言うと、たとえば幼い頃の虫捕りの経験かもしれない。虫の動きに全てを集中し、虫のあらゆる動きに対応できる精神状態を維持し、虫の周囲の状況もしっかりと把握している。虫の一点に集中しながら全体も掌握しているのである。その瞬間が無の境地のような気がする。一瞬無の境地になる感覚が今でも思い起こされる。いや、今だからこそこれこそが無の境地だと再認識している。虫を捕まえる一瞬の動きと、これに至る緊張の一瞬と、その時機を決断するまでの精神状態は無の境地に近いと私は思っている。
スポーツには自然体という言葉がある。
いかなる状況にも対応できる身体の体勢と精神状態である。これも無の境地に近いのではないかと思う。思い込みや偏見があると動きがぎこちなくなる。一概に精神集中として説明されるが、ある仮想の一点に集中して周囲の状況を全て自己の感覚下に置いているような状況ではないかと思う。その反応は感覚を超えた第六感の存在さえ感じる。それほど無の境地であるのだろう。自分自身と周囲の環境の調和でもあり、その延長線上は周囲の大気であり地球自然環境でありもっと言えば宇宙に通じていると思う。この状態では全ての感覚が研ぎ澄まされ、全ての身体の機関が準備完了している状態だと思う。
この頃、街中で傍若無人の行動を良く見る。
冷静に考えてみると、周囲の気配に鈍感なのではないかと思えてくる。自分が傍若無人の行動をしているという認識がないのである。言い方を変えると周囲の迷惑なり配慮のなさを感じ取る感覚が欠落しているのだと思う。一度でいいから幼い頃の虫捕りの感覚をスポーツの自然体を思い出して欲しいものである。瞬間でもいいからあの無の境地を体現して欲しいものである。それとも、幼少期にそのような虫捕りやスポーツの経験を全く積んでいないのであろうか・・・。私にはビンビンに感じるのだが・・・。
例えば、雑踏での行動である。
周囲を見ることなく、強引にぶつかってくる。雑踏ではお互いに半身でかわすくらいしかできず、全身でかわしたら周りの人にぶつかってしまう。強引にぶつかってくる人には対処ができない。時々はサッカー選手のごとく直前でステップを踏んで状況が許せば左右にかわすこともあるが、いつもなんでこんなことしなければならないのかと思う。相手は五体満足の若者であり、こっちは60歳を過ぎた年配者である。時には肩がぶつかって睨み返されることがあるが、なんだか変である。少なくとも人間である前に動物的な自然感覚を身につけて欲しいものである。動物はどんな状況でもお互いが無意識にぶつかり合うことはない。
例えば、破れたジーンズファッションである。
ファッションだといえば私としても拒絶はしないが、破れたジーンズは貧乏の証である。どう考えてもあなたは貧乏人ですと主張していることになる。そして通常の一般人なら周囲の相手に対する敬意から破れたジーンズは避けようとする。それを堂々と主張する事は周囲の相手に対して不快であり失礼でもある。少なくとも周囲に対する配慮を欠いている。これを逆手にとって自己主張しているという考えもあるかもしれないが、これはどう考えても邪道である。こんな自己主張は必要ないし、自己主張するならもっと建設的で前向きな方向を目指すべきだと思う。これも自然体で考えれば解りそうなものだと思うが、それほど迷惑をかける訳でもないし別に非難するつもりもない。
私は本当の貧乏を経験している。
それでも破れた衣服を身に着けた記憶がない。少なくともたとえ破れていても丁寧につぎあてされた衣服であった。その丁寧なつぎあてに感謝して幼少期を過ごした。そんな時代遅れの私達世代にとって破れたジーンズファッションは何とも理解に苦しむ。少なくても、破れた部分を丁寧に繕ったものをファッションとしてもらいたい。そして、できればつぎあてをした服を公共の場所で着用する事は時と場合を考えて慎重に判断してもらいたいと思うこと仕切りである。こんな思いを持つことこそ無の境地に程遠く偏屈なのではないかとも思うが、老婆心でなく老爺心ながら、果たして聞く耳は持っているのだろうか・・・。
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