オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

醒めた生活

2007年01月14日 | Weblog

この頃、無性に孤独感を感じる。

 何をしていても冷静な自分がつきまとう。冷静な自分を忘れて熱狂できる時もあるが、終わってしまうと平常の醒めた自分しかなく、いったい何だったんだろうと半分後悔と反省を思い起こしてしまう。通常は熱狂するまでに至らず、淡々とした気持ちのままで物事を実行している自分が見えてしまう。周囲の反応に合わせてこじんまりとまとめてしまうため、出来上がりも標準的であり盛り上がりに欠ける。昔はこんなことなかったような気がするし、こんな意識を持つこともなかった。何でこんな世界に入り込んでしまったのだろう。

冷静な自分とは、周囲と融合できない、自分でも不安感を持つ孤独な存在でもある。

 周囲が熱狂していても自分だけ醒めている。自分のやっていることに否定的に自問自答してしまう。このような人の周りにはしらけた雰囲気が漂い、周囲の人まで巻き込んで意気消沈させてしまうようである。あまりひどいと鬱状態に陥るのではないかと自分でも心配している。人間の心理なんて考え方ひとつでコロコロ変わってしまう。今まで充実感を感じていたかと思うと、一転して何とも言えぬ虚無感に落ち込んでしまう。果たしてその真実の実態とは杳としてとらえようがない。我を忘れた状態が真実でもなく冷静に見つめる状態が真実でもない。真実だと思っていること自体が幻想でもあるし瞬間的に真実でなくなってしまう。唯一確かなのは外界とのやりとりの中で築きあげられる事実としての真実である。これは自分の心象風景ではなく明らかに他との関係に定義づけられる真実である。

自分の中だけで生き甲斐を見つけるのは難しい。

 やはり他との関係の中にたくさんの生き甲斐が見つけられる。他との関係を広げて行けば生き甲斐は無尽蔵である。しかし、冷静に一点を見つめると無尽蔵にあるように見える生き甲斐もその場その時点での一瞬の熱狂にしか過ぎなく、変化に追いかけられているだけで一貫した思想も脈絡も見出せない。少なくとも時間つぶしにはしたくないと思うが、それでは具体的にどうしたらいいかと考えるとその答えもない。物事は行動を起こさないと始まらないが、その行動の集大成がひとつの思想を形成することもない。自分に属する固有の思想はやはり自分の中に求めなければならないようである。自分を見つめ直し自分を分析するのは孤独な厳しい修行でもある。

この頃「何が何でもこうしなければならない」という気負いがなくなった気がする。

 気負いがあれば自分ももっと発憤しなければならないし、周囲も発憤させて、状況によっては意見を対立させて論争や喧嘩もしなければならない。「何が何でもこうしなければならない」と考えるのは、周囲が自分の思ったように動いてくれないためであろう。それを自分の思い通りに動かそうと躍起になっているのが昔のやり方である。今では、解決法は複数あり、いずれの方法でも可能であり、周囲の意見を尊重して解決法を決める場合がほとんどである。そのためか仕事をやり遂げた後も自分でやったという達成感はあまり得られないし、失敗してもたいていは自分の助言通りにやっていない場合がほとんどで自分が原因だとはっきり思えなくなっている。また、徹底的な失敗という場面に遭遇することも少なくなっている。

はっきり言うと、情熱がなくなっている。

 一所懸命にがむしゃらに何かをやろうという情熱が失せている。反対にそのような情熱を期待する年代を過ぎてしまったのだろう。リスクを伴うやり方は敬遠され安全で確実なやり方を要求される年代に突入しつつあるようである。若者の危なっかしい情熱に水を差して、常識的な無駄のないやり方へと教え諭す年代になりつつあるようである。お湯が下の方から沸騰しつつあるのを全体を混ぜ回して均一の温度にすることが役割になりつつある。恒常的な仕事はこれでも良いかも知れないが、創造的な仕事はこれではアウトプットが何もなくなってしまう。もはや創造的な仕事ができづらくなっている年代であるようである。寂しい限りである。しかし、これも我が年代の利点であり利用価値であるのだろう。

創造的な仕事は趣味的な分野に移りつつある。

 自己完結できる仕事はどんなに創造力を発揮しようと自分の勝手である。そんな自分の趣味的な仕事に没頭するのがこの頃無性に心地よい。そんな趣味的な仕事とは日常生活の中にあり、現在は自分だけの中で完結している。これを何とか社会性を持たせたものに拡大させて行く必要があると思う。自分だけの中ではやってもやらなくても自己満足の世界であるが、社会性を持たせるとやったことにより価値が与えられると思う。今は本来の仕事をやりながらでそこまで拡大できないが将来的には社会性も視野に入れながら考え今からでも少しずつ準備して行かなければならないと思う。

今のままでは、情熱も夢も消え失せてしまう。

 これから情熱と夢を追求できるものを新しく開拓する必要がありそうであり、情熱と夢を共有し追求する仲間を作って行かなければならない。料理、陶芸、絵画、音楽、スポーツ、日曜大工、園芸等何でも良いような気がする。できれば同好の士が集まって、できれば作品を買ってくれる人がいて、世のため人のため役立ち感謝される環境ができて行けばこの上ない幸せであり、これからも生き甲斐を持てると思う。本来はこれがまともな生活であり、「サラリーマン」という生活が異常なのである。身近なところから本来の姿に戻れるよう今現在から考え方を変えて行かなければならない。

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