世の中の動きの考え方には二つあるように思える。
ひとつは全てのことは事前に想定され、矛盾なく決定されていると言う考え方で、もうひとつは自由にどんどん進めて行って問題が起こった時に検討して結論を出してゆく考え方である。 前者の方が危険性が少なく効率的に見えるが、体制を決定するのに時間がかかったり改善するのが遅れる欠点がある。反対に、後者は危険性が高く無駄も多いが、スピードが速く柔軟な対応ができる。現代の世の中は動きが流動的で展開のスピードも画期的に増加している。この中で生き残るためには、多少の危険と効率性を犠牲にしてでも後者を追求する姿勢が必要ではないかと思う。
しかしながら、徹頭徹尾後者を追及するのが最善の策かというと、そうでもない。
長期的な視野に立てば前者が有利なのは自明の理である。要は一定期間での時間単位の取り方の話で、短期では後者を追及し、長期では前者を追及しなければならない。短期の考え方を繰り返すだけでは最良の結果を生むことはできないし、長期の考え方に基づいたしっかりとした想定と決定事項を準備しておく必要がある。それなのに、通常は長期的な考え方に縛られて短期的な考えができなかったり、長期的な考えを準備することなく短期的な考え方を繰り返すことになる。全ての事が事前に想定され矛盾なく決定できると言うのも間違いだし、その場その場で問題が起こった時に対策していけばいいという考え方も間違いである。
法律の考え方も同じではないかと思う。
事前に想定し矛盾なく決定することを前提とした法律と、これが不可能であることを前提に、問題が起こった時に裁判によって解決し判例の積み重ねによって確定してゆく法律である。日本が前者であり、英米が後者であるような気がする。このために、国民の考え方についても大きな隔たりがある気がする。どちらも利点欠点があり、これを上手く使い分けてゆくのが最良の策だと思うが、どちらも相容れないで、間違った方向へ突っ走っているのが現在の状況ではないかと思っている。共産主義と資本主義がお互いに徹底して反発して発展し、共倒れしそうな現状を見るにつけ、理想的な姿は共産主義と資本主義が融合したものだと私は思っている。資本主義側にいる私としては共産主義が相容れないが、その考えの一部を取り入れて資本主義を修正すべき時が来ているのではないかと密かに思っている。
自由と規制は上手に使い分けなければならない。
何もかも規制するのは問題があるし、何もかも自由にしてしまっても問題がある。基本的には自由であるが、必要なものは規制しなければならない。規制が強すぎると自由競争が阻害されるし、自由奔放のままでは収拾がつかなくなる。ポピュリズムとファシズムの話があるが、「ポピュリズムが好ましくてファシズムなんてとんでもない」というのが日本人の普通の考え方かもしれないが、どちらも考え方の対極にあり、為政者の人格や能力によって結果が左右されるだけで、どちらが良くてどちらが悪いということでもなく、上手く使い分けることが重要だと思う。ここでのキーワードは情報公開であるが、情報をオープンに公開すれば合意が得られると言うポピュリズムも間違っているが、情報を公開せず国の決定が絶対だと強制するファシズムも間違っている。基本的には情報公開が前提であり、その中で専門家による正しい情報による国の決定事項を国民に提供して世論を牽引してゆくのが政治のあり方だと思う。
日本の場合はどうなんだろう。
基本的な考え方は、事前に想定して矛盾なく決定する事を前提にしているようだ。そのために自由競争が阻害され形骸化して柔軟性を欠いている。そのために国際競争力も衰退している。例えば、過去に何度もあった電気製品の国際標準規格についても同じ事が言える。ほとんど日本が敗退しているのは、自由競争と規制の考え方が間違っているためだと思う。日本は技術的な見地から徹底して検討した結果としての規制による標準化を重視するが、諸外国は自由競争の結果としての普及度の判定による標準化を重視する。国際的な開発競争も同じ気がする。日本は最高の技術をもって最高の機能を追求するが、今現在求められているのは、在来の技術の組み合わせであっても使い勝手のいい、使用者が求めるものを追求すべきなのである。この辺の考え方を改善すべきではないかと思っている。
それでは、日本人は考え方において柔軟性を欠いているかというと、そうでもない。
本来の国民性として国民個人は高い柔軟性を保持していると思う。この柔軟性をもってこれまで対応して素晴らしい成果を上げてきた過去の歴史がある。どこに柔軟性を阻害するものがあるかと言うと、集団であり、組織であり、団体であり、国である。いわゆる体制側が不甲斐ないのである。これらの集団、組織、団体、国の活動を活発化して考え方を改善してゆかない限り日本は沈没してしまう。大いに国民個人の優秀性と柔軟性と社会性を生かして、諸外国と自由に競争できる環境づくりをしてゆかなければならない。グローバル化というが、諸外国に日本を適合させてゆくことがグローバル化ではない。日本の実力と個性を諸外国で大いに発揮する事こそグローバル化である。そのために集団、組織、団体、国が何を考えなければならないのか、それが問われているのである。ポピュリズムではなくある程度いい意味でのファシズムの要素が求めれているのであり、国民のご意見伺いをするばかりではいつまでたっても何も解決することはないし、解答はそこにはない。
ひとつは全てのことは事前に想定され、矛盾なく決定されていると言う考え方で、もうひとつは自由にどんどん進めて行って問題が起こった時に検討して結論を出してゆく考え方である。 前者の方が危険性が少なく効率的に見えるが、体制を決定するのに時間がかかったり改善するのが遅れる欠点がある。反対に、後者は危険性が高く無駄も多いが、スピードが速く柔軟な対応ができる。現代の世の中は動きが流動的で展開のスピードも画期的に増加している。この中で生き残るためには、多少の危険と効率性を犠牲にしてでも後者を追求する姿勢が必要ではないかと思う。
しかしながら、徹頭徹尾後者を追及するのが最善の策かというと、そうでもない。
長期的な視野に立てば前者が有利なのは自明の理である。要は一定期間での時間単位の取り方の話で、短期では後者を追及し、長期では前者を追及しなければならない。短期の考え方を繰り返すだけでは最良の結果を生むことはできないし、長期の考え方に基づいたしっかりとした想定と決定事項を準備しておく必要がある。それなのに、通常は長期的な考え方に縛られて短期的な考えができなかったり、長期的な考えを準備することなく短期的な考え方を繰り返すことになる。全ての事が事前に想定され矛盾なく決定できると言うのも間違いだし、その場その場で問題が起こった時に対策していけばいいという考え方も間違いである。
法律の考え方も同じではないかと思う。
事前に想定し矛盾なく決定することを前提とした法律と、これが不可能であることを前提に、問題が起こった時に裁判によって解決し判例の積み重ねによって確定してゆく法律である。日本が前者であり、英米が後者であるような気がする。このために、国民の考え方についても大きな隔たりがある気がする。どちらも利点欠点があり、これを上手く使い分けてゆくのが最良の策だと思うが、どちらも相容れないで、間違った方向へ突っ走っているのが現在の状況ではないかと思っている。共産主義と資本主義がお互いに徹底して反発して発展し、共倒れしそうな現状を見るにつけ、理想的な姿は共産主義と資本主義が融合したものだと私は思っている。資本主義側にいる私としては共産主義が相容れないが、その考えの一部を取り入れて資本主義を修正すべき時が来ているのではないかと密かに思っている。
自由と規制は上手に使い分けなければならない。
何もかも規制するのは問題があるし、何もかも自由にしてしまっても問題がある。基本的には自由であるが、必要なものは規制しなければならない。規制が強すぎると自由競争が阻害されるし、自由奔放のままでは収拾がつかなくなる。ポピュリズムとファシズムの話があるが、「ポピュリズムが好ましくてファシズムなんてとんでもない」というのが日本人の普通の考え方かもしれないが、どちらも考え方の対極にあり、為政者の人格や能力によって結果が左右されるだけで、どちらが良くてどちらが悪いということでもなく、上手く使い分けることが重要だと思う。ここでのキーワードは情報公開であるが、情報をオープンに公開すれば合意が得られると言うポピュリズムも間違っているが、情報を公開せず国の決定が絶対だと強制するファシズムも間違っている。基本的には情報公開が前提であり、その中で専門家による正しい情報による国の決定事項を国民に提供して世論を牽引してゆくのが政治のあり方だと思う。
日本の場合はどうなんだろう。
基本的な考え方は、事前に想定して矛盾なく決定する事を前提にしているようだ。そのために自由競争が阻害され形骸化して柔軟性を欠いている。そのために国際競争力も衰退している。例えば、過去に何度もあった電気製品の国際標準規格についても同じ事が言える。ほとんど日本が敗退しているのは、自由競争と規制の考え方が間違っているためだと思う。日本は技術的な見地から徹底して検討した結果としての規制による標準化を重視するが、諸外国は自由競争の結果としての普及度の判定による標準化を重視する。国際的な開発競争も同じ気がする。日本は最高の技術をもって最高の機能を追求するが、今現在求められているのは、在来の技術の組み合わせであっても使い勝手のいい、使用者が求めるものを追求すべきなのである。この辺の考え方を改善すべきではないかと思っている。
それでは、日本人は考え方において柔軟性を欠いているかというと、そうでもない。
本来の国民性として国民個人は高い柔軟性を保持していると思う。この柔軟性をもってこれまで対応して素晴らしい成果を上げてきた過去の歴史がある。どこに柔軟性を阻害するものがあるかと言うと、集団であり、組織であり、団体であり、国である。いわゆる体制側が不甲斐ないのである。これらの集団、組織、団体、国の活動を活発化して考え方を改善してゆかない限り日本は沈没してしまう。大いに国民個人の優秀性と柔軟性と社会性を生かして、諸外国と自由に競争できる環境づくりをしてゆかなければならない。グローバル化というが、諸外国に日本を適合させてゆくことがグローバル化ではない。日本の実力と個性を諸外国で大いに発揮する事こそグローバル化である。そのために集団、組織、団体、国が何を考えなければならないのか、それが問われているのである。ポピュリズムではなくある程度いい意味でのファシズムの要素が求めれているのであり、国民のご意見伺いをするばかりではいつまでたっても何も解決することはないし、解答はそこにはない。
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