オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

自業自得

2022年11月05日 | Weblog

自業自得は本来は悪い意味にもいい意味にも使われる。

 ところが、現代では悪い意味でしか使われない。「宝くじに当たったのは自業自得ですね」とは言わない。「借金で首が回らなくなったのは自業自得だ」と言うのはすんなり受け入れられる。何でだろうと思う。悪いことの原因は徹底して追及されるけれども、良かったことの原因は放ったらかしで見過ごされてしまうようである。自分で行ったことが良い結果を生むか悪い結果を生むかはその時点では判らない。結果として良いか悪いかが判明する。

自業とは自分で行ったこと、自得は自分自身で受けることである。

 結果が良くても悪くても自分自身に降りかかってくるし、その原因となる行動をとったのも自分自身である。これが本来の「自業自得」で仏教の因果応報の考え方からきている。長生きできるのも幸福でいられるのも健康でいられるのも自業自得なのである。早死するのも不幸なのも不健康なのも自業自得なのである。まずは、現在の自分自身が自業自得の結果であることを自覚しなければならないし、現実を受け入れなければならない。

そう考えると、周囲の他人から「自業自得」とは言われたくない。

 周囲に迷惑をかけているなら責められることもあるかもしれないが、そうでない限りは放っておいてほしいと思う。正真正銘の「自業自得」であって、本人も納得して受け入れなければならないのである。そして、反省しながらより良い結果を生むための努力を現実的に始めなければならないのである。そのままにしていたら「自業自得」が続くだけである。悪かった結果に対する反省が主体であるために悪い意味での自業自得がのさばるのだろう。

旧統一教会がらみで被害者が国に救済を求めている。

 宗教団体に犯罪行為があれば旧来の法律で取り締まれるはずである。それが取り締まられていないのは、犯罪として告発する人が少なかったのだろう。告発できなかった環境もあるし、国も信教の自由という建前のもとに見過ごしていた部分もあるかもしれない。ここにきて宗教に対する議論が活発になって、あちこちで告発の機運が増しているようだ。

しかしながら、国に救済を求めるのは何かおかしいと思う。

 宗教団体との関係で、自ら成した行為は自らの判断で行ったはずである。騙されたとか脅迫されたとか、マインドコントロールだとかいう前に、自らの判断が間違っていたことの結果の「自業自得」である。たぶん素晴らしい結果が得られると思っての行為であったはずである。これもまた自業自得であり、自分の将来をより良くしようとして行った行為の結果なのであろう。これを国の責任にして賠償を要求するのは間違っている気がする。

言い方は悪いが、ギャンブルと同じようなものである。

 ギャンブルに身を投じて大損したからその分の損害を国に補償しろと要求するようなものである。これこそ自業自得である。大金を手にすることを夢見て投じた損害であろう。結果として損害となっただけで、その責任は自分自身にある。もしかしたら大金を手にしていたかもしれない。その確率が非常に小さいにもかかわらず挑戦した結果でもある。騙されていたと言っても後の祭りである。

宗教団体の活動に不正行為があると言うなら、

 その不正行為をみんなで告発して犯罪として立証してゆけばいいと思う。信教の自由に隠れて不正行為をなしているのなら、その部分を変えていかなければならない。現在の被害者の救済だけではないはずである。第二次世界大戦の反省から、国家神道を廃止して信教の自由を掲げて強制的に政治と宗教の分離を図ったわけであるが、日本の宗教そのものは置き去りにされたままである。その意味でも宗教に対する議論を高めるいい機会だと思う。

政教分離の旗の下、

 宗教を手つかずのものとして放置してはならない。特定の宗教と政治が結びつくのは問題だが、宗教も立派な組織団体を持ち、その組織団体を他の組織団体と同様に政治が関与し統制するのは当然のことと思える。その部分は欠落しているだろうが、それは宗教団体の個々の不正行為とは別の話で、宗教そのものの法律的位置づけを見直すことがより重要なんだと思う。戦後75年経っても見直されていない法律を改正すべき時を迎えているのではないだろうか。


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