オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

約束

2006年07月01日 | Weblog

「やらなければならない」と「やらなくてもいい」の差

 人は何をもって「やらなければならない」と「やらなくてもいい」の判断をしているのだろう。その大元は他人との「約束」ではないかと思う。他人との約束がない限り基本的には「やらなくてもいい」のである。具体的な約束がなくても自発的に「やらなければならない」と判断する場合もあるだろうが、これは過去の約束の積み重ねによって得られた周囲からの信頼に応える形で判断されたものであろう。各々の約束を確実に果たした実績はこれからも約束を果たしてくれるという信頼につながって行く。その信頼を裏切らないためには「やらなければならない」のである。よって、他人との関係が薄れれば薄れるほど「やらなければならない」が「やらなくてもいい」に変質して行く。

約束をきっちりと守らない人には前向きの「やらなければならない」意識は育たない。

 自分のためだけの「やらなければならない」が存在する。生きるため、楽しむため、欲求を満足するため等で他人はどうでもいい。過去に約束を守らなくても済んでしまった経験の積み重ねが「やらなくてもいい」を生んでいる。約束は人との関係で半分は人のために履行するものである。約束を守らない人は自分勝手なのである。ところが普段の社会生活で守らなくてもいい無視できる約束事がいかに多いことか・・・。守らなくてもいい無視できる約束事が多ければ多いほど現代の日本人は「自由」だと言い、厳格な約束事が多くなると「自由を束縛する」と言う。

他人との約束を守らずに、周囲の信頼を裏切るつもりなら、

 「やらなければならない」ことは、いつでも「やらなくてもいい」に変わって行く。そして何もやることがなくなって行き、ただ生存するだけの生ける屍になる。本質的に「やらなければならない」ことが最初から存在するわけではなく、他人との約束、周囲の信頼の中で「やらなければならない」ことが生まれてくる。そして最終的に周囲の人から「この人はこんなことができる」と信頼され評価されたものがその人の生きた価値であり生き甲斐である。「やらなければならない」という意識を持って判断させるための第一歩は、他人との約束を確実に守らせることである。この最初の一歩をいい加減にすると「やらなくてもいい」という意識を持った集団が蔓延ることになる。

小さなマナーでもルールでもいい。

 確実に守らせることを子供の頃から習慣づけさせることが重要である。しかし、この頃周囲を見渡すと、マナーもルールも堂々と無視し、平気な顔をしている人達であふれかえっており、中には違法行為や犯罪行為でさえ取り締まられなければ捕まらなければまかり通る風潮がある。この風潮は「やらなければならない」を「やらなくてもいい」に急速に変質させている原因になっている。教育を本人の自主性を重視したやり方でやることを徹底しているが、本人の自主性だけでは「約束」は生まれない。約束は他人との関係において生まれ、最初は他人からの依頼やお願いであり状況によっては強制である。他人を意識しないで自発的な「約束」は生まれない。それを全て本人の自主性に任せっぱなしにすると、自分本位の自己中心的な「やらなくていい」という意識を持った集団が育つ。

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