オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

損得勘定

2008年10月25日 | Weblog

人から親切を受けることは心温まる快いことである。

 反対に人に親切にして感謝されると幸福な気分になれる。いずれも自分も相手も満ち足りた幸せな気分になることができる。ところが、人から親切にしてもらって「儲けた」と思い、人に親切にしたら「損をした」と思うと、満ち足りた幸せな気分とは程遠い我利我利亡者のなれの果てのような、損得しか頭になく、目先のことしか考えない、自分のことしか頭にない、心の狭い貧弱で可哀想な生き方しかできなくなる。これでは親切にした人も親切にされた人も後味の悪い思いをする。

自分のために生きることと人のために生きることは半々が普通である。

 すべてを人のために捧げて生きる人は聖人か神様である。自分のために生きるということは、周囲にある程度の迷惑をかけ我が儘をしていることになる。その分は人のために生きて恩返しをしなければならない。こんなことを言うこと自体が損得勘定であり我利我利亡者の出発点であるが、「恩返しをしなければならない」という強制や義務感で表現するからおかしなことになる。「恩返し」そのものは気持ちのいいことであり、恩返しができることを光栄に思い感謝しなければならないし、幸福感を得るために恩返しをするのである。自分のために生きて感謝、人のために生きて感謝である。幸福感は2倍になる。そしてあくまで最終目的は世のため人のために生きることである。

自分のことしか考えないと「損得勘定」しか生まれない。

 相手のことを考えることができれば、自分が損をした分は相手が得をしているのであり、相手が得をしたことを素直に喜んでやればいいし、相手に得をしてもらうために自分が損をしたのなら何も腹を立てることはない。相手に得をして喜んでもらうためには自分が損をしなければならないのである。相手を喜ばせる目的でやった損は必然の行為であり、これがなければ相手を喜ばせることはできない。(また損得勘定で話をしてしまった・・・)

目の前に真に困っていて助けを求める人がいて、

 これを損得勘定から見捨てる人は「人でなし」である。当然そういう行為ばかりを繰り返す人は周囲から信頼と尊敬を得ることはできずにいずれは自分も見捨てられることになる。助ける場が与えられたと言うことは反対に感謝しなければならない。絶好の働き場でもある。

「損得勘定」を考える人は偽善者だと言われる。

 「損得勘定」を抜きにした、自然発生的に心の中から湧いてくるのが真の善である。自分の心に忠実に生きればいいのである。あの人はケチだとか、つきあいが悪いとか他人にとやかく言われる筋合いはない。相手に対してケチな人は、相手からの行為にもケチであるはずである(そんなもったいないことをしてもらうのは申し訳ないという感覚であろう)。収支ともにケチであれば問題ない。つきあいが悪い人は人と接する機会が少ないだけであり、期待通りには応えてくれないかも知れないが、その分余計な気を使う必要がないクールでいいヤツなのである。

100円の物を50円に値切る人は、

 自分の価値観では100円の物が50円の価値しかないのであり、これに忠実に従えば、自分では50円の施しを相手にしたつもりが相手にとっては100円の価値がある。何も問題ない。しかし、100円の物を50円で値切って買い、50円の価値しか認めなかった物を法外な100円以上の値段で他に売りつけるのは自分の心を偽っていることであり、売りつけた相手を騙していることでもある。こんな「損得勘定」は精神衛生上よろしくないし偽善でもある。この偽善が当然だと思って濡れ手に粟のいい加減な商売をしている人が多いのではないだろうか。商売は金儲けではない。お客に便宜を図ってその見返りの一部を労賃としていただいているだけである。あくまでも社会のため、みんなのために役立つことが最終目的である。

世の中を損得勘定だけで考える人が多くなったし、せせこましい話ばかりである。

 スキあらば得をしようとし、損をすることは一切やりたくないという徹底振りである。損をすることもあるだろうし得をすることもあるというおおらかな気持ちを持つことができないようだ。自分の周りにバリアを作って、ここからの出入りを綿密に計算しているごときの人間関係が大手を振ってまかり通っている。そして、得をした分は密かに自分で自己満足し、損をした分は大声を張り上げて周囲に向かってわめき散らし少しでも損をなくそうと躍起になる。他人が損をすると「ざまぁ見ろ」と優越感を持ち、他人が得をすると口汚くののしり引きずり下ろす。見ていると恥ずかしい限りである。

「損得勘定」では相手の損を増やし得を減らすのが鉄則である。

 しかし、これでは相手はたまったものではない。「不幸になぁれ不幸になぁれ」と絶えず呪文をかけられているようなもので、どう転んでも浮き上がることはできない。こんな関係ではいつまでたってもお互いの間に幸福感が生まれることはない。「損得勘定」ばかりする人はみんなから嫌われる。嫌われ者は孤立せざるを得ない。こうして孤立した者同士の集団としての社会が誕生する。その社会は地獄に近い。いや、「損得勘定」ばかりする者にとっては当然の社会であるが、その中にいる「通常の人」にとっては地獄であると言った方が適当かも知れない。地獄から逃れるためには「通常の人」をやめなければならない。これまた地獄である。

周囲が幸福でないと自分も幸福になれない。

 周囲が不幸で自分だけが幸福であるのは後ろめたい気持ちがつきまとうし、かといって自分の幸福を分け与えてしまうと全てを失うことになる。周囲と断絶して自分だけの幸福を守るのも全体を見渡せば尋常ではない。下手をすればみんなから袋叩きに合う。周囲が幸福でなければ自分も困るのである。まずは周囲の幸福を願うことが最優先である。社会との関わり合いを大切にし、周囲の人達に献身的に奉仕し、周囲を幸せにしたいと希い、よりよい社会を作り上げたいという気持ちに溢れていることが重要である。貧しくとも弱くとも劣等者でも馬鹿と言われようと賞賛されることがなくてもいっこうに構わないのである。金持ちで強くて優れていて頭が良くて威張ったり自慢できるものがあることが幸福ではない。

「飽食の時代」と言われるが、これも「損得勘定」の弊害である。

 損得が苦楽となっただけである。苦しいこともあれば楽しいこともあるのが人生である。これを楽しいことばかりを追求すると弊害が生まれる。楽しいことは苦しいことのあとに生まれ、苦しければ苦しいほど楽しさは倍加する。自分の身体の欲する要求に忠実に生きていれば問題ないが、快楽ばかりを求めすぎるあまりに必要以上の贅沢な食物を摂りすぎ、結果として健康を害することになる。身体のためにいい食物とは決して贅沢なものではない。贅沢なものでなくてもおいしく食べれるのは、精力的な労働があるからである。労働をいやがって贅沢なグルメを追求していたのでは健康な体を維持できるはずがない。

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