私の使っているクラシックギターのペグ(糸巻き)が故障して調弦ができなくなった。
よく観察してみると、つまみが壊れて空回りして弦を巻き取ることができなくなって音程を上げることができない。最初は耳で聞いて発見し、手の感触で空回りしていることを確認し、目で見て巻き取られていないことを確認した。ここまでが五感からくる感覚である。これをもとに脳で考えてなぜ空回りしているか考えてみる。これ以降が知覚である。たぶん、つまみの穴が大きくなっていると思われる。
分解してみると、金属の軸に切り欠きがある。
この切り欠きで回転しないようにしているが、つまみの穴がすり減って大きくなっているために固定されないで空回りしている。さぁ、どうしよう。これからは知識の総動員である。全体を新しいものと交換する、つまみを新しいものに交換する、つまみを自分で修理する、などなどである。どれが一番いい方法か、効率的で現実的かを検討することになる。糸巻き全体の部品があるか、つまみの部品があるか、修理するためにはどうするか、経費はどれが安いかなどであろう。
これらの方法を頭でシミュレーションすることとなる。
このあたりから人間独特の知能の発揮かもしれない。そして最終結論を下して故障個所を正常に戻すことになる。この作業も試行錯誤の連続であろう。試行錯誤も知能の成す技である。このようにして人間はいろんな場面で感覚→知覚→知識→知能という順番を繰り返しながら生活していると言える。知能を働かせることが人間独特であり、これが人間としての文明を発達してきたともいえる。しかし、その大本となるのは感覚であり、動植物と変わりはない。感覚は周囲の環境(自然)からもたらされ。最終的に感覚により確認し完了する。
結果的にはつまみを修理することにした。
大きくなっている穴を小さくするものを探した。中に詰めるものである。接着剤は回転のトルクに耐えられなくて失敗。空き缶を小さく細く切り取った鉄片を挟んだが、鉄片ごと回ってしまい失敗であった。最後に行きついたのは同じ材質のプラスチックで穴埋めすることであったが、その最適な材料はパンの袋を閉じるやつ(バッグ・クロージャーと言うらしい)を細く切って詰めたらうまくいった。故障と言う問題を解決するものは私の周囲の生活空間にあったのである。
ダーウィンのミミズの研究は有名である。
ミミズは地球上の大地の土壌を作り出していると発表して世界中からバカ呼ばわりされたが、現在では周知の事実である。また、ミミズが地表に空いた穴をふさぐ行動をつぶさに観察して、ミミズが知能を保有しているかを実験した。結果は知能は保有していないであった。解決の方法は自然環境の中にあったのであり、これに順応しただけであるという事らしい、この自然環境から意味や価値が与えれれていると考えたのである。
認知心理学の難しい言葉で「アフォーダンス(affordance)」と言う。
ミミズが穴をふさぐものは自然環境の中にあり、その自然環境から穴をふさぐものが提供される。ミミズが穴をふさぐというアフォーダンスが存在するのである。その時ミミズにはいろいろな選択肢があるが、この選択肢が適用される関係をアフォーダンスと言う。これはただ単なる選択肢であって、穴をふさぐために最適なものはこれであるという認識とは全く関係ない。そして、人間はミミズの行為の結果を見て最終的に知能を保有していると誤解してしまうのである。実はミミズは何も考えていないということであり、行為の結果に過ぎないという事であろう。
このアフォーダンスを我々の生活に適用してみると、
行為の選択肢は環境の中に存在することであり、その選択肢と関係を持つものがアフォーダンスなのだろう。知覚、知能、知識の前に周囲の環境を見つめて客観的かつ冷静な関係性に注目するところから始めなければならないのだろう。要は固定されたものではなく、柔軟な関係性に基づいて選択肢を列挙しなければならないのだろう。そこから出発すれば思い込みや偏向や固執はなくなるのであろう。また、動植物の自然原理も理解できるのであろう。
分解してみると、金属の軸に切り欠きがある。
この切り欠きで回転しないようにしているが、つまみの穴がすり減って大きくなっているために固定されないで空回りしている。さぁ、どうしよう。これからは知識の総動員である。全体を新しいものと交換する、つまみを新しいものに交換する、つまみを自分で修理する、などなどである。どれが一番いい方法か、効率的で現実的かを検討することになる。糸巻き全体の部品があるか、つまみの部品があるか、修理するためにはどうするか、経費はどれが安いかなどであろう。
これらの方法を頭でシミュレーションすることとなる。
このあたりから人間独特の知能の発揮かもしれない。そして最終結論を下して故障個所を正常に戻すことになる。この作業も試行錯誤の連続であろう。試行錯誤も知能の成す技である。このようにして人間はいろんな場面で感覚→知覚→知識→知能という順番を繰り返しながら生活していると言える。知能を働かせることが人間独特であり、これが人間としての文明を発達してきたともいえる。しかし、その大本となるのは感覚であり、動植物と変わりはない。感覚は周囲の環境(自然)からもたらされ。最終的に感覚により確認し完了する。
結果的にはつまみを修理することにした。
大きくなっている穴を小さくするものを探した。中に詰めるものである。接着剤は回転のトルクに耐えられなくて失敗。空き缶を小さく細く切り取った鉄片を挟んだが、鉄片ごと回ってしまい失敗であった。最後に行きついたのは同じ材質のプラスチックで穴埋めすることであったが、その最適な材料はパンの袋を閉じるやつ(バッグ・クロージャーと言うらしい)を細く切って詰めたらうまくいった。故障と言う問題を解決するものは私の周囲の生活空間にあったのである。
ダーウィンのミミズの研究は有名である。
ミミズは地球上の大地の土壌を作り出していると発表して世界中からバカ呼ばわりされたが、現在では周知の事実である。また、ミミズが地表に空いた穴をふさぐ行動をつぶさに観察して、ミミズが知能を保有しているかを実験した。結果は知能は保有していないであった。解決の方法は自然環境の中にあったのであり、これに順応しただけであるという事らしい、この自然環境から意味や価値が与えれれていると考えたのである。
認知心理学の難しい言葉で「アフォーダンス(affordance)」と言う。
ミミズが穴をふさぐものは自然環境の中にあり、その自然環境から穴をふさぐものが提供される。ミミズが穴をふさぐというアフォーダンスが存在するのである。その時ミミズにはいろいろな選択肢があるが、この選択肢が適用される関係をアフォーダンスと言う。これはただ単なる選択肢であって、穴をふさぐために最適なものはこれであるという認識とは全く関係ない。そして、人間はミミズの行為の結果を見て最終的に知能を保有していると誤解してしまうのである。実はミミズは何も考えていないということであり、行為の結果に過ぎないという事であろう。
このアフォーダンスを我々の生活に適用してみると、
行為の選択肢は環境の中に存在することであり、その選択肢と関係を持つものがアフォーダンスなのだろう。知覚、知能、知識の前に周囲の環境を見つめて客観的かつ冷静な関係性に注目するところから始めなければならないのだろう。要は固定されたものではなく、柔軟な関係性に基づいて選択肢を列挙しなければならないのだろう。そこから出発すれば思い込みや偏向や固執はなくなるのであろう。また、動植物の自然原理も理解できるのであろう。
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