不安は情報不足から生じる。
全く情報がなければ、思考の外であり不安を感じることはない。中途半端な情報を与えて不安だけ煽って細部の情報を与えないと不安は自己増殖してゆく。この不安を解消するためには正確な信頼できる安心情報を早い時期に与えることである。事実に基づいて現状を正確に説明することも不安の拡大を防止できる。余計な不安は取り除かれるし、不安領域をある程度意識の中で確定できれば意識の中でむやみに拡大されることもない。問題は偏った短絡的思考で思い込みの感情的な判断により大衆がパニック状態もしくは軽度のノイローゼ状態に陥った時であり、こうなると周囲からの新たな情報を受けつけなくなり、手のつけられない状況になる。こうなる前に手を打つ(冷静な判断に必要な正確な情報を与えてやる)ことが重要だと思う。
反対にいろんな情報が大量に飛び交うと中立的な立場に落ち着くことになる。
「いろんな」とは、極端から極端までの中間も含む情報であり、これを作為したり偏向させたりするとたとえ大量な情報であっても中立的な立場で冷静な判断はできなくなる。日本のマスコミは極端から極端に走る傾向にある。これに合わせて国民も極端から極端に振り回されることになる。いわゆる「マスコミ」と言われるものは日本の場合は伝達する情報はほとんど均質である。Aは右と主張しBは左と主張する、という場面をあまり見かけない。どこを見てもほぼ同じ主張を繰り返している。ここにも「顔の見えない日本人」が見え隠れする。「顔の見えないマスコミ」である。主張が片方に引っ張られ始めるといつの間にか片方に徹底して偏向してしまい、反対方向の主張と中間部分の主張が姿を消してしまう。いつもその場の雰囲気で右に行ったり左に行ったりを際限なく繰り返している。
マスコミの報道を見ていると、不安を煽ることばかりが目につく。
特ダネとかスクープとかは、瞬間のものである。時が経つと大量の情報の海に埋もれてしまう。特ダネ、スクープの類ばかりを追いかけていると、物珍しいときだけ大々的に取り上げて、あとはほったらかしになる。一番関心を引かせるには「不安を煽る」ことである。オオカミ少年ではないが「オオカミが来るぞぉ~」を繰り返すことになる。オオカミ少年が失敗したのは毎回「オオカミが来るぞぉ~」と言い続けたことである。「ライオンが来るぞぉ~」「ハルマゲドンが来るぞぉ~」「大魔王が来るぞぉ~」「世界不況が来るぞぉ~」と言えばもっと信憑性があったのである。今のマスコミがまさにそうである。くるくると目先を変えて不安を煽って注目させようとしている。
ある大事件でのマスコミフィーバーが終わって、
よくよく冷静に考えるとあれは何だったんだろうと不思議になってくる。しかし、その時はその件に関する情報はあまり取り扱われずに、次の大事件で賑わっている。普通は大事件として取り扱われるような事件でも、運悪くもっと衝撃的な大事件が同時に起こると埋もれてかすんでしまう。問題の軽重でなく、異常さ、衝撃、希少価値、前代未聞などが視聴者、読者獲得のため優先される。節操のない無責任な金儲け主義には困ったものである。不安を煽るだけ煽って、新鮮さがなくなったらそのままほったらかすような行為を繰り返していたら世の中不安だらけになり、しかもその不安のひとつひとつは自己増殖してゆくことになる。事件として取り上げたのなら途中経過も含めて明らかにし最後まで(事件が収まるまで)責任を持たなければならないと思う。
昔、話題になったダイオキシン、O-157、遺伝子組み替え、原子力などを振り返ってみると、
マスコミフィーバーは過去も現在も含めてたくさんある。いずれも騒ぐだけ騒いで、ひと騒ぎが終わったら次の話題に飛びついている。話題には事欠かないようだが、ひとつの事件に対してマスコミ報道を追ってみると尻切れトンボである。頭ばかりがでっかくて胴体部分はお粗末で足の部分はちょん切れている。騒ぐだけ騒いであとは誰かにお任せの姿勢がうかがえる。それで結局どうなったんだろうと現時点の結論を求めると何もない。ほとんどが問題提起だけである。「あれが悪いこれが悪い、何をしている、しっかりしろ」だけである。具体的にどうすべきなのかを提示した情報は少ないし、その結末を最終的に伝達する努力はあまり見られない。今ではすっかり話題性を失ってあまり騒がれることはない。
当時は有識者や専門家を総動員し、マスコミに登場させていたが、
彼らに求めるのは単なる感想が主体であり、個人の考えた対策や核心をつく問題点を真剣に聞くことは少ない。個人的な意見は参考にこそするが聞いてもしょうがないという雰囲気であり、具体的な対策や核心をつく問題点に及ぶと話題をそらして逃げてしまう。反対に、具体的な対策や核心をつく問題点を熱弁する人がいると「そこまで言ってもいいんですか」と心配する始末である。それを具体的に考えるのは政治家や官僚や地方自治体の長や会社や工場の経営者や社長さんであると思い込んでいる。結局マスコミは発生した事件の担当者を吊し上げるだけで自分たちでは具体的には考えようとしない。そして吊し上げるだけ吊し上げて気が済むとさっさと手を引いてしまう。問題は何も解決していないし、引き続き注目してゆくべきなのである。
例えば、ダイオキシンである。
ダイオキシンが恐ろしいという話題ばかりが先行したが、私の認識では人体に有害かどうかははっきりわからないというのが本当のところであろう。有害である事実はあるがその原因物質そのものは厳密に特定できていない。ダイオキシンそのものは特定の物質ではない。PCDD(ポリ塩化ジベンゾダイオキシン類)の総称であり、ダイオキシンの種類は結合する物質によって無数に存在し、その中で体に有害なのがどれなのか明確に特定できていない。最も毒性が強いのは,2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-p-ダイオキシンだと言われているが、反対に言うとほとんどのダイオキシンはあまり有害でないということもできる。ただし有害なダイオキシンはプールの水に一滴ほどの濃度でも人体になにがしかの影響を与える。それが恐いのである。しかもダイオキシンは体内に蓄積され排出されることはない。そしてそれがどのような状況で発生し、どのように人体に影響するのかわかっていないのである。
ダイオキシンが発生するのは、
塩化ビニルや塩化ビニリデン樹脂などを低温で燃焼させると発生するおそれがあるという。ということは、塩化ビニルや塩化ビニリデン樹脂などを燃やさないのであれば「ダイオキシン」は発生しない。本当の原因はゴミ焼却場ではなく塩化ビニルや塩化ビニリデンである。これさえなくせば、または低温で焼却しなければダイオキシンはほとんど発生しない。塩化ビニルや塩化ビニリデン製品は巷に溢れ我々の周囲にもたくさん使われている。ところが、マスコミが攻撃するのは「ゴミ焼却場」ばかりである。ゴミ焼却場が目の敵になる。塩化ビニルや塩化ビニリデンを燃やす燃やさないに関係なく「ダイオキシン」呼ばわりである。落ち葉を燃やしても焚き火をしても野焼きをしても「ダイオキシン」と言われる。煙を見ればダイオキシンと思っている。大いな誤解であり、誤解されたままで情報が一人歩きしている気がする。いつの間にか学校から、町からゴミ焼却炉が姿を消した。塩化ビニルや塩化ビニリデンなどを含まない生活ゴミは従来通り燃やしても良いはずなのに・・・。
O-157騒動も尋常ではなかった。
O-157は大腸菌の1種であり、人体に有害なベロ毒素を出すのが特徴である。このO-157がどのような環境条件で発生するのかはよくわかっていないが、一旦環境条件が整うと爆発的に増殖する。O-157自体は弱い大腸菌であり、他の大腸菌が多数生存している状況では増殖できないし熱にも酸にも弱い。健康な抵抗力のある人であればO-157に感染することはない。ところが、世をあげて大騒動になった。まるで人類を滅亡させかねない病原菌であるかのように、そしてO-157が発見されたと見るやその施設は目の敵にされぼろくそに集中攻撃された。そして嵐は去り、嵐の前と後ではほとんど変化がない。従前のような社会生活が復活している。
基本的には大腸菌はどこにでもいるし、
どういうきっかけでO-157が増殖するのかよくわからないし、通常の社会生活で全く大腸菌のないような環境を維持することは不可能に近い。はっきり言うと人間の体そのものが大腸菌だらけである。この大腸菌をみんな殺したらほかの有害な菌が代わりに侵入してくる可能性がある。O-157の発生は事故みたいなもので、完全な無菌室でもない限り食い止められない。O-157発生の原因が衛生管理というなら全てを対象にすべきであり、全てが安全でないことになる。 O-157が恐いのは、O-157そのものではなく、大腸菌を突然変異させO-157のような有害な菌を発生させる環境そのものではないかと思う。エイズ、MRSA院内感染、ガン、エボラ出血熱、狂牛病、結核などなど、並べてみると恐くなるが、その原因を作っているのは人間の作り出した「化学物質」である。
遺伝子組み替え食品も同じである。
具体的な人体への害はまだ現在のところ明確でない。人体に無害であることが確実に証明できていないというのが正直なところであろう。疑いはあるが有害だと断定されたわけではない。ところがマスコミの報道は「自然に反することであり有害でないわけがない」という論調が主流である。そして遺伝子組み替えと言えば何でもかんでもとにかく危険・反対という頑固さである。遺伝子組み替えの有用性や必要性、どのような問題がありどのように解決すればいいのかなどという観点での意見は少ない。
遺伝子組み替えで重要なのは、遺伝子組み替えの実体を明らかにすることである。
遺伝子組み替え製品であることを明確化し消費者が任意に選択できるような環境ができれば安心と思っているが、私に言わせれば開発の段階から明確にしなければならないと思っている。いま現在どのような遺伝子組み替えの研究や実用化がなされていて、それをどこが厳格に管理しているか不明である。たぶん野放し状態であると思う。危険であると思うなら実体を明らかにすることが重要であり管理もしっかりしなければならない。そうでなければ危険が現実となった時対策のしようがない。そして対策も今からしっかり考えておかなければならない。 「遺伝子組み替え製品は危険であり全て廃絶すべきだ」という感情的かつ独断的な意見に強く支配されていると、業者は区分表示すること自体を躊躇してしまう。区分表示した途端、遺伝子組み替え製品は誰も買わなくなる。自然に反することが全て悪いなら、今ある文明の利器は全て廃絶しなければならないことになる。
原子力も同じである。
東海村臨界事故で、いまだにあのような状況(通常の6倍の量を投入)で、最大限どれくらいの放射線が発生するのかが正確に発表されない。ある人は原子力発電所の原子炉が爆発するのに匹敵する事故だと認識し、ある人は実験室での試験管内の反応くらいにしか認識しない。一体ほんとうはどうなんだろう。わからずじまいである。はっきりした説明もない。マスコミは大変だ大変だと騒ぐが、どのくらい大変なのかまるでわからない。いつまで経っても安心情報が伝わってこない。事実も正確に伝わってこない。この事件も新鮮味を失っていつしかお蔵入りになって風化してしまった。残ったのは「規則・マニュアル通りにやりなさい」と言う教訓しかないが、規則・マニュアルが果たして正しいのかはよく解らない。
原子力開発に対する不安は残ったままである。
国もほとぼりが冷めるのを待つだけで、積極的な情報発信は避けているようである。原子力は将来的には必要であり、これと共存してゆかなければならないと思うが、これでは原子力は国民から隔離され敬遠され厄介者扱いされ日陰者扱いされ疎んじられるだけで、原子力に関する政府広報は絵に描いた餅を見せ続けるだけになってしまう。火薬やガソリンや鉄砲やナイフを一方的に安全だと言う人は常識を疑われるが、原子力を一方的に「安全だ」と言うことは許されているらしい。原子力は使い方によっては想像を絶するほど「危険」なのである。 その危険を明確にする事が安心につながると思う。
話題はもとに戻って、不安は情報不足から生じる。
基本的には情報不足、説明不足なのである。情報があてにならないし、情報源そのものが信頼できないし、信頼すべきものが次々と信頼を裏切る状況が発生すれば、何もかも信用できなくなる。これは正常な防御本能だと思う。不安原因がはっきりしなければ、不安原因を含むと思われるものは全て排除しないと不安は取り除かれない。周りは不安だらけになり、最後は身動きができなくなる。これを解消するためには不安を発生させた側は不安に対する有用な情報を時機を失せず提供することである。次に不安の影響を受ける側はこの情報を冷静に科学的に理論的に判断することである。ここで知恵を働かさないで思い込みや感情に流されると間違った判断をし、間違いは間違いを産んで増殖してゆくことになると思う。この両者を媒介するマスコミもこの2点に心がけ、大衆に迎合したり、ご機嫌取りをしたり、金儲けの材料にしたりしないことと、憶測や類推を廃し正確を期すことに努めなければならないとも思う。そしてマスコミが取り上げた内容は最後まで責任を持って報道することだと思う。
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