「平成」が終わろうとしている。
ただ単に日本の元号が変わるだけで、世界が変わるわけでもないし、世の中が変わるわけでもない。それでも一つの区切りとして平成を顧みることも必要なのだろう。「平成」を「平和に成る」と思っている人が多いと思うが、私は違う意味で「まっ平らに成る」とも解釈している。民主主義がさらに進展し、民衆中心の民衆主体の体制が良いも悪いも含めて現出している。上も下もまっ平らになって権威も尊敬も地位も名誉も地に落ちてしまっている。違った意味で日本の国土も各種の災害や開発でまっ平らになってしまったのではないかと危惧する。
昭和は躍進の時代であった。
米国に肩を並べて「Japan as No.1」と言われた時期もあったが、平成の時代に崖を駆け降りるように低落してしまった。この部分は大いに反省しなければならない。ただ単に時代の流れのせいにして、諦めていたのではさらに落ち込むだけである。経済だけがすべてではないが、経済が一つの指標でもあるのだろう。本当に追及すべきものは「平和に成る」ことであろうが、2017年の世界平和度指数(GPI)によると日本は11位であり、最近出たばかりの世界健康な国ランキングによると日本は4位である。
経済の指標を見てみると、
2019年の名目GDPで1位が米国、2位が中国、3位が日本である。驚くのは中国の躍進であり、現在は日本の2倍以上となっている。平成の初めには中国は11位であり、日本の4分の1しかなかった。ちなみに現在米国は日本の約4倍である。平成の初めの頃は世界時価総額ランキングでは平成元年日本の企業が1位から5位を占めていた。現在はすべて日本は姿を消してGAFA+M(Google Apple Facebook Amazon Microsoft )となっている。ものすごい変化である。
どうしてこうなったのだろう。
昭和の時代に日本が躍進したことと、平成の時代に中国が躍進したことを分析すれば何かがわかるのかもしれない。わたしは、社会主義や共産主義のパワーではないかと思っている。世界では社会主義や共産主義は凋落したと思われているが、思想としては社会主義や共産主義の考え方が必要なのである。民主主義や資本主義だけで突っ走ることに反省が必要なのだと思う。なにも社会主義国、共産主義国になれと言っているのではない。このような思想も取り入れていかなければならないと言っているのである。
考えてみると、昔の日本は封建主義だったが、
これは社会主義、共産主義に近いし、決して民主主義、資本主義ではないであろう。民主主義や資本主義の考えは明治以降本格的に取り入れられ、大政奉還以降日本の国は欧米を目指して急速に変化していった。この後を受けて昭和の経済成長があったのだろう。日本の民主主義や資本主義は外部から与えられたもので、自ら築き上げた純粋のものではない。明治以前の旧体制とが混ぜ合わさったものであり、中身は旧体制のままで、形だけが変わったのである。
現在の中国の躍進も同じである。
社会主義から修正社会主義となり、資本主義を導入し、現在に至っているが、基本的には中身は社会主義、共産主義で、制度として資本主義を取り入れているだけである。このように考えてみると、社会主義、共産主義と民主主義、資本主義が合体していいとこどりをしたものが最強なのかもしれない。この辺に反省事項があるのかもしれない。日本の衰退は、昔ながらの日本の共生的な封建主義の文化を捨て去りつつあることとシンクロしている。
資本主義はカネがカネを生む。
しかし、カネを増やしてもそのこと自体が社会に貢献しているわけではない。薄く広く散らばっているカネを効率的に集めただけである。カネを集める能力と機能があることは認めるが、果たしてそれが社会貢献になっているのかを再度確認しなければならないし、集めたカネはさらに社会貢献のために活用しなければならない。資本主義と社会主義の調和である。基本的に個人レベルの生活では社会主義の考えが強い。資本主義のみで人付き合いをすると間違いなくその人は嫌われてつまはじきにされる。
経済活動を活発にする根源は人材である。
人材を育てるのは教育である。日本は教育を学校制度に任せてしまって、受験戦争という学問とは関係ない競争を生み出して、本来の人材教育がおろそかになっている。人材教育は学校だけではなく、家庭や地域や自治体、会社や団体、そして国全体で行うものである。机に座って教科書に噛り付くばかりが教育ではない。人材教育の種は身の回りにいくらでも転がっている。子供は野山を走り回って仲間と遊んでいるだけで立派な人材教育になる。
制度としての教育は害を及ぼすばかりである。
教育は本来自由なものである。いろいろ多種多様な教育があっていい。一方的かつ画一的に教育勅語や教育基本法や学習指導要領などで細部まで縛るものではないし、これさえやっていればいいというものでもない。また、管理された教育に個性や創造性や問題解決能力やコミュニケーション能力やチームワーク力やましてやリーダーシップなどは育つわけがない。今の日本がまさにこれらが欠落した状態で、世界で躍進しているプラットフォーム産業に食らいついてゆく根性も野心も能力も欠いている。日本で平等主義から廃れつつあるエリート教育も再開しなければならない。
明治以降の日本は過去の遺産を食いつぶしていただけである。
それでも以前の日本国民には向上心があり、世界と対等に渡り合う自信があり、それを実践していたのである。昔は日本は世界の常任理事国であり世界を牽引していたのである。第2次世界大戦の戦禍はあったが、これも乗り越えて戦後の復興を果たした。これだけの人材が日本には眠っていたのである。ところが、戦後はこのような人材を育てることを怠ってきた。というか、間違った方向で一生懸命教育に専念し、国民がこれに振り回されていた感がある。受験勉強は学問ではないし、人材教育にもならない。無駄な競争心を煽るだけではないだろうか。
元号が変わることにあまり重要な意味はないが、
これを契機にして、過去を反省し、未来に向かってこの反省を生かして、具体的に何かを改善してゆかねばならない。何もしないでいれば日本は凋落するばかりである。誰か神がかりのスーパーマンが出てきて日本を画期的に改革してくれるわけではない。我々国民一人一人が身の回りで家族のため、みんなのため、社会のため、国のため、世界のためにより良い社会を目指して貢献してゆくしかない。決して金儲けだけを追及してはいけないのである。
ただ単に日本の元号が変わるだけで、世界が変わるわけでもないし、世の中が変わるわけでもない。それでも一つの区切りとして平成を顧みることも必要なのだろう。「平成」を「平和に成る」と思っている人が多いと思うが、私は違う意味で「まっ平らに成る」とも解釈している。民主主義がさらに進展し、民衆中心の民衆主体の体制が良いも悪いも含めて現出している。上も下もまっ平らになって権威も尊敬も地位も名誉も地に落ちてしまっている。違った意味で日本の国土も各種の災害や開発でまっ平らになってしまったのではないかと危惧する。
昭和は躍進の時代であった。
米国に肩を並べて「Japan as No.1」と言われた時期もあったが、平成の時代に崖を駆け降りるように低落してしまった。この部分は大いに反省しなければならない。ただ単に時代の流れのせいにして、諦めていたのではさらに落ち込むだけである。経済だけがすべてではないが、経済が一つの指標でもあるのだろう。本当に追及すべきものは「平和に成る」ことであろうが、2017年の世界平和度指数(GPI)によると日本は11位であり、最近出たばかりの世界健康な国ランキングによると日本は4位である。
経済の指標を見てみると、
2019年の名目GDPで1位が米国、2位が中国、3位が日本である。驚くのは中国の躍進であり、現在は日本の2倍以上となっている。平成の初めには中国は11位であり、日本の4分の1しかなかった。ちなみに現在米国は日本の約4倍である。平成の初めの頃は世界時価総額ランキングでは平成元年日本の企業が1位から5位を占めていた。現在はすべて日本は姿を消してGAFA+M(Google Apple Facebook Amazon Microsoft )となっている。ものすごい変化である。
どうしてこうなったのだろう。
昭和の時代に日本が躍進したことと、平成の時代に中国が躍進したことを分析すれば何かがわかるのかもしれない。わたしは、社会主義や共産主義のパワーではないかと思っている。世界では社会主義や共産主義は凋落したと思われているが、思想としては社会主義や共産主義の考え方が必要なのである。民主主義や資本主義だけで突っ走ることに反省が必要なのだと思う。なにも社会主義国、共産主義国になれと言っているのではない。このような思想も取り入れていかなければならないと言っているのである。
考えてみると、昔の日本は封建主義だったが、
これは社会主義、共産主義に近いし、決して民主主義、資本主義ではないであろう。民主主義や資本主義の考えは明治以降本格的に取り入れられ、大政奉還以降日本の国は欧米を目指して急速に変化していった。この後を受けて昭和の経済成長があったのだろう。日本の民主主義や資本主義は外部から与えられたもので、自ら築き上げた純粋のものではない。明治以前の旧体制とが混ぜ合わさったものであり、中身は旧体制のままで、形だけが変わったのである。
現在の中国の躍進も同じである。
社会主義から修正社会主義となり、資本主義を導入し、現在に至っているが、基本的には中身は社会主義、共産主義で、制度として資本主義を取り入れているだけである。このように考えてみると、社会主義、共産主義と民主主義、資本主義が合体していいとこどりをしたものが最強なのかもしれない。この辺に反省事項があるのかもしれない。日本の衰退は、昔ながらの日本の共生的な封建主義の文化を捨て去りつつあることとシンクロしている。
資本主義はカネがカネを生む。
しかし、カネを増やしてもそのこと自体が社会に貢献しているわけではない。薄く広く散らばっているカネを効率的に集めただけである。カネを集める能力と機能があることは認めるが、果たしてそれが社会貢献になっているのかを再度確認しなければならないし、集めたカネはさらに社会貢献のために活用しなければならない。資本主義と社会主義の調和である。基本的に個人レベルの生活では社会主義の考えが強い。資本主義のみで人付き合いをすると間違いなくその人は嫌われてつまはじきにされる。
経済活動を活発にする根源は人材である。
人材を育てるのは教育である。日本は教育を学校制度に任せてしまって、受験戦争という学問とは関係ない競争を生み出して、本来の人材教育がおろそかになっている。人材教育は学校だけではなく、家庭や地域や自治体、会社や団体、そして国全体で行うものである。机に座って教科書に噛り付くばかりが教育ではない。人材教育の種は身の回りにいくらでも転がっている。子供は野山を走り回って仲間と遊んでいるだけで立派な人材教育になる。
制度としての教育は害を及ぼすばかりである。
教育は本来自由なものである。いろいろ多種多様な教育があっていい。一方的かつ画一的に教育勅語や教育基本法や学習指導要領などで細部まで縛るものではないし、これさえやっていればいいというものでもない。また、管理された教育に個性や創造性や問題解決能力やコミュニケーション能力やチームワーク力やましてやリーダーシップなどは育つわけがない。今の日本がまさにこれらが欠落した状態で、世界で躍進しているプラットフォーム産業に食らいついてゆく根性も野心も能力も欠いている。日本で平等主義から廃れつつあるエリート教育も再開しなければならない。
明治以降の日本は過去の遺産を食いつぶしていただけである。
それでも以前の日本国民には向上心があり、世界と対等に渡り合う自信があり、それを実践していたのである。昔は日本は世界の常任理事国であり世界を牽引していたのである。第2次世界大戦の戦禍はあったが、これも乗り越えて戦後の復興を果たした。これだけの人材が日本には眠っていたのである。ところが、戦後はこのような人材を育てることを怠ってきた。というか、間違った方向で一生懸命教育に専念し、国民がこれに振り回されていた感がある。受験勉強は学問ではないし、人材教育にもならない。無駄な競争心を煽るだけではないだろうか。
元号が変わることにあまり重要な意味はないが、
これを契機にして、過去を反省し、未来に向かってこの反省を生かして、具体的に何かを改善してゆかねばならない。何もしないでいれば日本は凋落するばかりである。誰か神がかりのスーパーマンが出てきて日本を画期的に改革してくれるわけではない。我々国民一人一人が身の回りで家族のため、みんなのため、社会のため、国のため、世界のためにより良い社会を目指して貢献してゆくしかない。決して金儲けだけを追及してはいけないのである。
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