あちこちで特に若者が「インスタ映え」と言って騒いでいる。
いったい何なんだろうと理解できない世代である。私としては自分の直接の体験が一番であり、その体験を追体験するための写真であり動画である。いくら後になって写真を見ても動画を見ても自分の実体験を超えることはない。その時感じた感動が自分の最高のものであり、それ以上の体験は再現できないし、たぶん自然現象も偶然の組み合わせも二度とは出現しないのであろう。だから感動的なのである。心の記憶としてずっと残るのである。このようにして刻まれた記憶は永遠に残ることになる。
目の前に感動的なシーンがあれば、まずは自分自身で感動を味わうのだろう。
目の前の感動的なシーンを放っておいてカメラやビデオの撮影を優先する。しかも、カメラやビデオの画像や映像が効果的に収められる角度やフレームを考えている。そして、頭の中にあるのはテレビやコマーシャルで流されている画像や映像のような作品を作ることであるようだ。何か目的や価値観が間違っている気がする。まずは目の前の素晴らしい感動を自分でしっかりと受け止めることが大切なんだろう。何をやっているんだと思ってしまう。記録はその後であろうし、ほかの人達に何とか伝えたいと思うのはその後であろう。ほかの人達に何かを伝えることが目的でもない。あくまでも自分が主体の様々な人生経験である。そんな目的外の思いに囚われていると自分の純粋な人生経験が思う存分味わえないことになる。もっと真剣に自分の感性を大切にしたいものである。
「インスタ映え」とは何だろう。
自分の目の前にある感動的なシーンは置いといて、とにかく視聴してくれる人に感動を与えるものを追及する行為である。どのようにしたら感動的なシーンがとれるかを常に考慮に入れている。感動的なシーンである基準は巷に流れているメディアの興味を引く映像である。そのような映像を撮るためにいろいろと趣向を凝らすし、そのような映像を求めてあちこち探し回ることになる。問題は自分自身がどうなんですか?ということである。周囲の人に認めてもらえることを目指して情報を発信して何になるというのだろう。
誰が何と言おうと自分の信ずるものを発信すればいいではないか。
受け狙いをする必要はさらさらないし、受け狙いを意識したとたん、自分の主張は薄らいでしまうし、何が自分の意見なのかがわからなくなってしまう。何故受け狙いをしなければならないのだろう。ネットワーク上の閲覧数を気にしているからなのだろうか。ネットワークで商売しようとすれば閲覧数は気になるところだが、閲覧数のために自分の意思をゆがめて読者にゴマを摺ってもしょうがない。
「インスタ映え」するということは、
大勢の人に興味を持ってもらうことでもある。大勢の人が、興味を持つことにはあまり情報量はない。一般的な情報である。一部の専門的な情報であれば一般の人は関心を示さない。その一般的な情報に興味を持たせるためには演出が必要である。その演出の部分が「インスタ映え」である。ただし「インスタ映え」の情報には最初のインパクトはあっても情報の中身にあまり価値は認められない。一瞬のキャッチフレーズ的な垂れ流し情報である。
えぇー、私のブログは「インスタ映え」とは程遠い。
インスタ映えするためには最初のインパクトが必要らしい。そのインパクトがなければ誰も見向きもしないし、インパクトが持続しないと読み手はすぐに別のチャネルに移ってゆく。だれもじっくりと内容を吟味しようとする人はいないようである。だから炎上があるし風評被害があるしフェイクニュースがある。ガセネタにもすぐに食いつく一般大衆がいる。困ったものである。いったいじっくりと熟読して自分で理解し判断し決断し自分なりの情報発信できる人はどこに行ったんだろう。
いったい何なんだろうと理解できない世代である。私としては自分の直接の体験が一番であり、その体験を追体験するための写真であり動画である。いくら後になって写真を見ても動画を見ても自分の実体験を超えることはない。その時感じた感動が自分の最高のものであり、それ以上の体験は再現できないし、たぶん自然現象も偶然の組み合わせも二度とは出現しないのであろう。だから感動的なのである。心の記憶としてずっと残るのである。このようにして刻まれた記憶は永遠に残ることになる。
目の前に感動的なシーンがあれば、まずは自分自身で感動を味わうのだろう。
目の前の感動的なシーンを放っておいてカメラやビデオの撮影を優先する。しかも、カメラやビデオの画像や映像が効果的に収められる角度やフレームを考えている。そして、頭の中にあるのはテレビやコマーシャルで流されている画像や映像のような作品を作ることであるようだ。何か目的や価値観が間違っている気がする。まずは目の前の素晴らしい感動を自分でしっかりと受け止めることが大切なんだろう。何をやっているんだと思ってしまう。記録はその後であろうし、ほかの人達に何とか伝えたいと思うのはその後であろう。ほかの人達に何かを伝えることが目的でもない。あくまでも自分が主体の様々な人生経験である。そんな目的外の思いに囚われていると自分の純粋な人生経験が思う存分味わえないことになる。もっと真剣に自分の感性を大切にしたいものである。
「インスタ映え」とは何だろう。
自分の目の前にある感動的なシーンは置いといて、とにかく視聴してくれる人に感動を与えるものを追及する行為である。どのようにしたら感動的なシーンがとれるかを常に考慮に入れている。感動的なシーンである基準は巷に流れているメディアの興味を引く映像である。そのような映像を撮るためにいろいろと趣向を凝らすし、そのような映像を求めてあちこち探し回ることになる。問題は自分自身がどうなんですか?ということである。周囲の人に認めてもらえることを目指して情報を発信して何になるというのだろう。
誰が何と言おうと自分の信ずるものを発信すればいいではないか。
受け狙いをする必要はさらさらないし、受け狙いを意識したとたん、自分の主張は薄らいでしまうし、何が自分の意見なのかがわからなくなってしまう。何故受け狙いをしなければならないのだろう。ネットワーク上の閲覧数を気にしているからなのだろうか。ネットワークで商売しようとすれば閲覧数は気になるところだが、閲覧数のために自分の意思をゆがめて読者にゴマを摺ってもしょうがない。
「インスタ映え」するということは、
大勢の人に興味を持ってもらうことでもある。大勢の人が、興味を持つことにはあまり情報量はない。一般的な情報である。一部の専門的な情報であれば一般の人は関心を示さない。その一般的な情報に興味を持たせるためには演出が必要である。その演出の部分が「インスタ映え」である。ただし「インスタ映え」の情報には最初のインパクトはあっても情報の中身にあまり価値は認められない。一瞬のキャッチフレーズ的な垂れ流し情報である。
えぇー、私のブログは「インスタ映え」とは程遠い。
インスタ映えするためには最初のインパクトが必要らしい。そのインパクトがなければ誰も見向きもしないし、インパクトが持続しないと読み手はすぐに別のチャネルに移ってゆく。だれもじっくりと内容を吟味しようとする人はいないようである。だから炎上があるし風評被害があるしフェイクニュースがある。ガセネタにもすぐに食いつく一般大衆がいる。困ったものである。いったいじっくりと熟読して自分で理解し判断し決断し自分なりの情報発信できる人はどこに行ったんだろう。
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