オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

差別のマニュアル

2022年11月19日 | Weblog

差別にならないためのマニュアルを作ると言う。

 いつも思うのだけれども、差別しないようにしようと心がけることは、すでに差別していることでもある。全く差別していないのであれば、あえて気を付ける必要もない。それでも差別が生じるのは、差別される側にも問題がある気がする。差別される側が被害者意識が強くて、何でもないことでも差別されたと思い込んでしまうからであろう。差別する側も差別される側も同じ土俵に立って考えなければならない。対等の立場から出発して考えないといけないようである。

「めくら」や「ちんば」は差別用語であるらしい。

 「はい、私はめくらです。」「はい、私はちんばです。」から出発したら差別ではなくなる。めくらでちんばであることは事実なのである。それを差別と感じるのはなじったり見下げたりからかったりする感情が働くからだろうし、継続的に執拗に責められたらいやになるであろうし、事実をもとに責められても対策のしようがない。自分ではどうにもできないことで責められてもどうしようもない。責められても無視するしかない。それでいいではないか。

事実は事実として認めるべきである。

 それでも差別しないさせない差別と感じないそんな関係が必要なんだろう。一つ一つ取り上げてマニュアルを作っても仕方ないような気がする。マニュアル通りに行動すること自体が心と心のつながりが失われてしまう。一人の人間と一人の人間とのコミュニケーションこそ必要であって、最初から差別する人と差別される人の関係ではないはずである。そこがうまくいかないから差別となるのであろう。結果として人間関係がうまくいかない場合はいかなる場合でも関係を断ってそこを去るしかない。

お互いのおおらかさ、寛容さが欠けている気がする。

 少々傷つけたり傷つけられたり、不愉快で不快だったり、気分を害したりはサラリと流したらどうだろう。些細なことにとらわれていいことはほとんどない。主体は些細なこと以外にあるのである。主体の方を見失わないようにしたいものである。お互いは基本的には赤の他人であって、全くの同一人物になることは不可能である。であれば、違う部分で齟齬が起きるのは常態である。その齟齬も含めて意思疎通しているのである。

齟齬がないように身構えたのでは正常な会話はできない。

 そして、その些細な齟齬をいちいち指摘していたのでは、主体となるものは置き去りにされたままである。なにが主体なのかもう一度考え直す必要がある。許容できない齟齬は取り上げるべきであるが、それでもって全体を表現するものではない。主体となるいくつかの要素の一つに過ぎない。それに囚われ過ぎるのも問題がありそうである。まずは、お互いが自由闊達に話し合える場が必要なんだろう。

自由闊達に話し合えない関係は、それだけで問題を含んでいる。

 その問題が何かをお互いに考えなければならない。そしてその部分は早い時期に解消すべきなのである。それが根の深い問題で、解消できない場合は、一旦その場を離れてお互いに冷静になって、改めて話し合うこととなる。平行線でもいいのである。その問題のためにのっぴきならない状態に陥って取り返しのつかないことになるのは最悪である。あくまで話し合いの手法であり態度についての問題であって、話し合いの主体とは関係ない。

よく、「みんなで考えよう」と言う人がいる。

 何となく表現はいい響きだが、その中身は、個人のアイデンティティーを殺している。個人をみんなに合わせましょうと言っているに等しい。あくまで考えるのは個人であって、その個人がその他の人と意見を戦わせてみんなの意見に発展するのである。その時点のみんなの意見も一つの意見に過ぎない。最初にみんなの意見があるわけではない。幻想の「みんなの意見」に個人を合わせようとするのは横暴であり無謀でもある。


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