形骸化は何故始まるのか・・・。
形骸化するためには先ず形を作った創始者が居るんだろう。お手本となるような成功した事実をもってそのやり方を形に残し、その形を踏襲することによって物事が行われる習慣化が定着したものであろう。形には創始者の精神が込められている。ところがその精神を忘れて形だけを追求するところから形骸化が始まる。精神は廃れないが形は時代の変化とともに使い物にならなくなる。精神を踏襲し形を時代の変化にあわせて変えてゆかなければならない。これが形骸化を阻止する手法である。
形骸化を理由に形そのものをぶっ壊す人が居る。
これは、形は変わるが精神も台無しにしてしまう。少なくとも骨格ぐらいは残さないと精神の存在場所がなくなってしまう。仏造って魂入れずでなく、仏壊して魂亡くすと言うことだろうか。よく考えてみると、継承された文化は全てが形を持っている。この形をもって精神を現している。学ばなければならないのはその精神であるが、精神を学ぶためには形を理解しなければならない。精神を学ぶ心を失って形を学べばただの形だけしか残らない。それが形骸化へつながる。精神は普遍だが形は時代とともに状況に合わせて変えてゆかなければならない。ただの形をまねるだけでは時代の変化に対応できない。
世の中は形骸化したものばかりである。
形だけで済まされているものばかりである。形骸化を打破するのは現実感覚である。具体的に自分で感じて、具体的に自分で行動し、具体的に周辺世界に影響を及ぼすところの現実感覚である。精神世界の中に留まっているだけでは形を変えることはできないし、普遍の精神が変わるはずがない。周辺世界とのかかわりにおいて精神世界も変わってゆく(進歩発展し深化する)。文明が発展すればするほど現実感覚が乏しくなり、精神世界の虜になってゆく。そして精神世界の中だけで現実感覚を体験したような錯覚に陥ってゆく。現実世界はゴミのような些細なことで全部を台無しにしてしまうようなことが起こり得るし、起こった事象は厳然たる事実で取り返すこともやり直すこともできない。時として融通無碍の精神世界と不可逆変化の現実世界の差が大いなる誤解と問題を生じる。
そのような中で培われたのが現存する文化であり、文明であり、哲学であり、学問であり、芸術である。
このような、文化、文明、哲学、学問、芸術(人類の英知)には大いに敬意を払わなければならない。これをおろそかにすることは神をも冒涜することと同等の畏れ多いことである。我々はこれらの人類の英知には尊敬の念をもって謙虚に学ばなければならない。そして、この人類の英知に手を加えて更に良いものに発展させる責務がある。この気持ちがなければ人類の英知は形骸化したものとなり現代の生ける屍と化す。要するに生きた知恵でなくなる。発展がなくなり固定化したところで化石または死骸となる。固定化したものは過去のものであり過去のものは現代にはそのままでは適用できない。
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