選挙運動が盛んである。
街頭で候補者の演説を聞いていて、「本当にあなたはそう思っているんですか?」「そんなこと実現可能だと考えているんですか?」「あなたにその知識と能力があるんですか?」「具体的な実現方法は考えているんですか?」「何を目的・目標にしているんですか?」と本人に直接質問したくなる衝動に駆られる。いろいろと演説を繰り返しているが、その中身はマスメディアからの受け売りばかりで、聴衆の耳に心地よい同感を得るものばかりで、独自性は微塵もない。もっと酷いのは、スローガンと名前の連呼で中身が何もない。こんな運動をするのが選挙だと思っている。
自分の意見には責任を持たなければならない。
責任を持てない事を約束するのは「嘘つき」である。そうであれば、責任を回避できるような内容で約束をする。これは「嘘つき」ではないが「詐欺」に近い。具体的な自分の意見を主張すれば責任が生じるし、その意見を実現しようとすれば、周囲の協力が不可欠である。協力とは何らかの犠牲を要請する事に他ならない。結局は国民に対して犠牲を強いる事に他ならない。その犠牲を受け入れても実現できる目的・目標がしっかりしていて、なおかつ理路整然とした道筋が示されていることに対して周囲の人々が協力するのである。
受け売りは自分の意見ではない。
受け売りの言葉を責任追及されても、「国民の意見だった」「マスメディアの報道だった」「政党のマニュフェストだった」と言えば責任回避できると思っている。少なくともそれを自分で選択し信じていたのであれば、それなりの責任は生じる。しかし、こういう人達は全く責任をとろうとしないし、最初から自分達の責任ではないと思っている。責任を取りたくないために、当たり障りのないその辺にある適当な言葉をつないで聴衆に迎合した意見を主張する。自分の意見を主張すれば、敵を作り、責任を取らされ、下手をすれば大失敗につながることになる。それでも、自分の本当の意見がない主張は全く無意味である。これを称して昔の人は「八方美人」と呼んだ。
実現不可能な事を容認するのも無責任である。
できるかできないかの判断を下すのが重要であって、その判断に責任を持って実現に向かい一生懸命努力することに価値がある。そのためには実現に向かっての目的・目標が明確で、概略の道筋も示さなければならない。目的・目標だけを掲げて実現可能かどうかの判断基準も具体的な道筋も示せないのは無責任を通り越して「嘘つき」「ホラ吹き」に近い。根拠も道筋もないのに「実現できます」と言うのは「詐欺」である。このような選挙演説が堂々となされている事に国民は怒らないといけないし、このような選挙演説に終始する人達を当選させてはいけないのである。国民を、民主主義を馬鹿にするなと言いたい。
このような人達が日本国をダメにしている。
実現可能かどうかを判断できない人に意見を求めても無駄だし、このような人に権限を与えてはいけない。このような人達のせいで膨大な無駄が消費されている。どうでもよくてほったらかしている状態で、実現できることも実現できないことも容認している人は何もしていない事と同然であるし壮大な無駄を製造している張本人である。自分の意見を主張すると摩擦が生じるので、何でも容認してしまう人達は一見善人に見えるが、とんでもない。ほとんど実現不可能な事に膨大な無駄を消費させている張本人である。自分の意見を主張してその実現に自ら一生懸命努力する人が本当の善人である。
学校教育も同じ様な気がする。
とにかく当たり障りのないように、教育基準どおりに決められたことをやっていればそれでいいと思っているが、教育とはそんなものではない。学生の可能性を信じて、学生としっかりとコミュニケーションをとって、実現可能な目標を選定してやって、その目標実現のため見守り、助言し、一緒に努力する事が基本のような気がする。あるがままの姿を容認して、その学生の個性をそのまま伸ばす事が教育だと思っているが、これは単に放任しているに過ぎないで、何も教育していない。ひとつかみのすばらしい才能を持った学生は成就するかもしれないが、その人達は教育しなくても(かえって教育しない方が)伸びてゆく。そうでない人達に手を差し伸べて助長してやるのが教育だろう。
経済活動も同じ様な気がする。
自分の意見を持って経済を牽引する人が少なくなっている。どこもみんな同じで個性を持った集団が少なくなっている気がする。これが経済の低迷の原因ではないかと思う。まずは、実現可能かどうかの判断をする人がいない。誰も判断しようとしない。現状をつぶさに分析して詳細に報告する人ばかりである。「それでどうするの?」と問うと、それは自分が決めることではないと思い込んでいる。結局は自分で責任を取ろうとしていない。最終的な決断は別として自分の意見としての結論と方策と向かうべき方向は持っておくべきである。そのような意見を一生懸命戦わせるような風潮があれば経済は活況になるのだろう。少なくとも「それでいいんじゃない」「とりあえずやってみよう」なんて根拠もなしに言う上司はたとえ社長であっても即刻首にしなければならないと思う。
政治も同じ様な気がする。
最終的な到達目標をどれにするかの論争はあまり意味がない。「私の目標はこれです。こっちの目標には反対です。」といくら言っても何も議論は進まないが、今の日本はまさにこれのオンパレードである。原発ゼロにしてどうするの?原発ゼロにしないでどうするの?消費税増税してどうするの?消費税増税しないでどうするの?ここが出発点のような気がする。原発ゼロにしてもしなくても、消費税増税してもしなくても、どうでもいい。最終的にどのような社会を実現しようとしているのかが最も重要であって、その将来像をしっかりと見せてくれる人がいないことに失望しているのが現実である。マスメディアももっと冷静に本質を見据えながら報道し論評してもらいたいものである。
街頭で候補者の演説を聞いていて、「本当にあなたはそう思っているんですか?」「そんなこと実現可能だと考えているんですか?」「あなたにその知識と能力があるんですか?」「具体的な実現方法は考えているんですか?」「何を目的・目標にしているんですか?」と本人に直接質問したくなる衝動に駆られる。いろいろと演説を繰り返しているが、その中身はマスメディアからの受け売りばかりで、聴衆の耳に心地よい同感を得るものばかりで、独自性は微塵もない。もっと酷いのは、スローガンと名前の連呼で中身が何もない。こんな運動をするのが選挙だと思っている。
自分の意見には責任を持たなければならない。
責任を持てない事を約束するのは「嘘つき」である。そうであれば、責任を回避できるような内容で約束をする。これは「嘘つき」ではないが「詐欺」に近い。具体的な自分の意見を主張すれば責任が生じるし、その意見を実現しようとすれば、周囲の協力が不可欠である。協力とは何らかの犠牲を要請する事に他ならない。結局は国民に対して犠牲を強いる事に他ならない。その犠牲を受け入れても実現できる目的・目標がしっかりしていて、なおかつ理路整然とした道筋が示されていることに対して周囲の人々が協力するのである。
受け売りは自分の意見ではない。
受け売りの言葉を責任追及されても、「国民の意見だった」「マスメディアの報道だった」「政党のマニュフェストだった」と言えば責任回避できると思っている。少なくともそれを自分で選択し信じていたのであれば、それなりの責任は生じる。しかし、こういう人達は全く責任をとろうとしないし、最初から自分達の責任ではないと思っている。責任を取りたくないために、当たり障りのないその辺にある適当な言葉をつないで聴衆に迎合した意見を主張する。自分の意見を主張すれば、敵を作り、責任を取らされ、下手をすれば大失敗につながることになる。それでも、自分の本当の意見がない主張は全く無意味である。これを称して昔の人は「八方美人」と呼んだ。
実現不可能な事を容認するのも無責任である。
できるかできないかの判断を下すのが重要であって、その判断に責任を持って実現に向かい一生懸命努力することに価値がある。そのためには実現に向かっての目的・目標が明確で、概略の道筋も示さなければならない。目的・目標だけを掲げて実現可能かどうかの判断基準も具体的な道筋も示せないのは無責任を通り越して「嘘つき」「ホラ吹き」に近い。根拠も道筋もないのに「実現できます」と言うのは「詐欺」である。このような選挙演説が堂々となされている事に国民は怒らないといけないし、このような選挙演説に終始する人達を当選させてはいけないのである。国民を、民主主義を馬鹿にするなと言いたい。
このような人達が日本国をダメにしている。
実現可能かどうかを判断できない人に意見を求めても無駄だし、このような人に権限を与えてはいけない。このような人達のせいで膨大な無駄が消費されている。どうでもよくてほったらかしている状態で、実現できることも実現できないことも容認している人は何もしていない事と同然であるし壮大な無駄を製造している張本人である。自分の意見を主張すると摩擦が生じるので、何でも容認してしまう人達は一見善人に見えるが、とんでもない。ほとんど実現不可能な事に膨大な無駄を消費させている張本人である。自分の意見を主張してその実現に自ら一生懸命努力する人が本当の善人である。
学校教育も同じ様な気がする。
とにかく当たり障りのないように、教育基準どおりに決められたことをやっていればそれでいいと思っているが、教育とはそんなものではない。学生の可能性を信じて、学生としっかりとコミュニケーションをとって、実現可能な目標を選定してやって、その目標実現のため見守り、助言し、一緒に努力する事が基本のような気がする。あるがままの姿を容認して、その学生の個性をそのまま伸ばす事が教育だと思っているが、これは単に放任しているに過ぎないで、何も教育していない。ひとつかみのすばらしい才能を持った学生は成就するかもしれないが、その人達は教育しなくても(かえって教育しない方が)伸びてゆく。そうでない人達に手を差し伸べて助長してやるのが教育だろう。
経済活動も同じ様な気がする。
自分の意見を持って経済を牽引する人が少なくなっている。どこもみんな同じで個性を持った集団が少なくなっている気がする。これが経済の低迷の原因ではないかと思う。まずは、実現可能かどうかの判断をする人がいない。誰も判断しようとしない。現状をつぶさに分析して詳細に報告する人ばかりである。「それでどうするの?」と問うと、それは自分が決めることではないと思い込んでいる。結局は自分で責任を取ろうとしていない。最終的な決断は別として自分の意見としての結論と方策と向かうべき方向は持っておくべきである。そのような意見を一生懸命戦わせるような風潮があれば経済は活況になるのだろう。少なくとも「それでいいんじゃない」「とりあえずやってみよう」なんて根拠もなしに言う上司はたとえ社長であっても即刻首にしなければならないと思う。
政治も同じ様な気がする。
最終的な到達目標をどれにするかの論争はあまり意味がない。「私の目標はこれです。こっちの目標には反対です。」といくら言っても何も議論は進まないが、今の日本はまさにこれのオンパレードである。原発ゼロにしてどうするの?原発ゼロにしないでどうするの?消費税増税してどうするの?消費税増税しないでどうするの?ここが出発点のような気がする。原発ゼロにしてもしなくても、消費税増税してもしなくても、どうでもいい。最終的にどのような社会を実現しようとしているのかが最も重要であって、その将来像をしっかりと見せてくれる人がいないことに失望しているのが現実である。マスメディアももっと冷静に本質を見据えながら報道し論評してもらいたいものである。
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