この頃見かけを繕う人が多い。
マスコミに出てくる有名人はほとんどが見かけを気にする人ばかりである。そして、見かけを気にしないで本質を語るとマスコミから総攻撃を受けることになる。最低限の体裁は保っていないとどこからか突込みがあってマスコミの餌食になってしまう。これを称して「脇が甘い」と言うことらしい。しかし、これではいつまでたっても本質を追求することはできないし、本質の部分はひたすら自分の中に隠し続けなければならない。
問題に対する対処方法も表面的である。
問題点を避ける、問題点に近づかない、問題が起こらないようにすることに精力を集中する。何か違うような気がする。問題点に立ち向かって問題点そのものを改善しなければならないのではないだろうか・・・。しかも問題点そのものを理解しようとしない。また、問題点に対処すべき人達が、最も問題点を理解していない人達である。最も問題点に疎い人達である。一体何なのだろうと思ってしまう。
例えば、ネットワーク犯罪がある。
この犯罪に取り組む人達は、統制する側であり、管理する側である。少なくとも犯罪を企む人の側にはない。この人達の生み出す解決策は、本質的なネットワーク犯罪対策ではない。政府なり地方自治体のオレオレ詐欺の防止キャンペーンの内容を見てみれば明らかである。過去の犯罪実績からの忠告に過ぎず、根本的な解決にはなってなく、新手のオレオレ詐欺がもっと巧妙な手口で猛威を振るっている。キャンペーンをやればやるほど犯罪者側は騙しやすくなるのは皮肉なことである。
インターネットによる悪影響も同じである。
インターネットは個人対個人のコミュニケーションツールである。結局は個人がしっかりしないとこのコミュニケーションツールを使いこなしきれない。それなのに個人の自由を束縛することにしか解決策を見出せないのは、本末転倒である。個人の自由闊達なコミュニケーションを実現しても問題が出現しないのが目指す目標である。個人は組織なり集団の代表でもある。組織なり集団の代表としての個人としても問題がない「個人」を育成するのが組織なり集団の目指す目標であろう。
IT社会の出現によって個人の知識と能力と人格が問われている。
反対に、個人の本性が暴露されるのがIT社会の怖いところでもある。個人の知識と能力と人格をしっかりと保持してIT社会に対峙しないととんでもないことになることを肝に銘じなければならない。昔よりももっと時間的に空間的にシビアな現実が横たわっているのが現代社会でもある。それがいやだったらネットワーク社会から逃げ出すことである。そういう意味では、相手のわからないマスメディアが相手ではなく、顔の見える個人が相手なのである。その個人の対象と空間が拡大しているだけなのであり、その規模を適正に管理できるツールが実現しただけなのである。
このような世の中では本質が問われる。
見せかけだけでは通用しないし、見せかけだけで通用する世の中は終わりつつある。政治の世界も同じで、本当の実力、知識、能力、人格が問われる世の中に遷移しつつあると思う。大いに結構なことである。もう一度、自分の実力、知識、能力、人格は何なのだろうと自省してみたいものである。そしてこの実力、知識、能力、人格を磨いてゆくことを改めて決意するものである。ごまかしは効かないのである。
マスコミに出てくる有名人はほとんどが見かけを気にする人ばかりである。そして、見かけを気にしないで本質を語るとマスコミから総攻撃を受けることになる。最低限の体裁は保っていないとどこからか突込みがあってマスコミの餌食になってしまう。これを称して「脇が甘い」と言うことらしい。しかし、これではいつまでたっても本質を追求することはできないし、本質の部分はひたすら自分の中に隠し続けなければならない。
問題に対する対処方法も表面的である。
問題点を避ける、問題点に近づかない、問題が起こらないようにすることに精力を集中する。何か違うような気がする。問題点に立ち向かって問題点そのものを改善しなければならないのではないだろうか・・・。しかも問題点そのものを理解しようとしない。また、問題点に対処すべき人達が、最も問題点を理解していない人達である。最も問題点に疎い人達である。一体何なのだろうと思ってしまう。
例えば、ネットワーク犯罪がある。
この犯罪に取り組む人達は、統制する側であり、管理する側である。少なくとも犯罪を企む人の側にはない。この人達の生み出す解決策は、本質的なネットワーク犯罪対策ではない。政府なり地方自治体のオレオレ詐欺の防止キャンペーンの内容を見てみれば明らかである。過去の犯罪実績からの忠告に過ぎず、根本的な解決にはなってなく、新手のオレオレ詐欺がもっと巧妙な手口で猛威を振るっている。キャンペーンをやればやるほど犯罪者側は騙しやすくなるのは皮肉なことである。
インターネットによる悪影響も同じである。
インターネットは個人対個人のコミュニケーションツールである。結局は個人がしっかりしないとこのコミュニケーションツールを使いこなしきれない。それなのに個人の自由を束縛することにしか解決策を見出せないのは、本末転倒である。個人の自由闊達なコミュニケーションを実現しても問題が出現しないのが目指す目標である。個人は組織なり集団の代表でもある。組織なり集団の代表としての個人としても問題がない「個人」を育成するのが組織なり集団の目指す目標であろう。
IT社会の出現によって個人の知識と能力と人格が問われている。
反対に、個人の本性が暴露されるのがIT社会の怖いところでもある。個人の知識と能力と人格をしっかりと保持してIT社会に対峙しないととんでもないことになることを肝に銘じなければならない。昔よりももっと時間的に空間的にシビアな現実が横たわっているのが現代社会でもある。それがいやだったらネットワーク社会から逃げ出すことである。そういう意味では、相手のわからないマスメディアが相手ではなく、顔の見える個人が相手なのである。その個人の対象と空間が拡大しているだけなのであり、その規模を適正に管理できるツールが実現しただけなのである。
このような世の中では本質が問われる。
見せかけだけでは通用しないし、見せかけだけで通用する世の中は終わりつつある。政治の世界も同じで、本当の実力、知識、能力、人格が問われる世の中に遷移しつつあると思う。大いに結構なことである。もう一度、自分の実力、知識、能力、人格は何なのだろうと自省してみたいものである。そしてこの実力、知識、能力、人格を磨いてゆくことを改めて決意するものである。ごまかしは効かないのである。
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