便利なものが巷に溢れかえっている。
テレビでラジオで新聞で雑誌でチラシでしきりに便利さを訴えている。いつものことながら、天の邪鬼の当方としてはいつも眉唾でながめている。便利なのはわかるが、その便利さを使いこなす段になるとかえって不便なのである。まずは、どのように便利な機能を使いこなすかである。果たしてその機能を必要としているのかさえ疑問である。要求性能にピッタンコ合えば便利なのだろうけれども、不要な機能はいくら便利でもただの飾りになってしまう。いつかは使うだろう便利な機能であってはあまり意味がない。
便利ということは、手抜きして楽ができることだと思う。
確かにある便利さを使いこなせば、楽になるが、すべてのものが便利な機能を兼ね備えているわけではない。その便利な機能が使えるものと使えないものがある。便利な機能に慣れてしまえば、便利でないものは使いにくいこととなるが、よく考えると、その便利な機能がついたものしか使えなくなってしまう。商売上手な売り手としては願ったり叶ったりだが、買い手としてはいろいろな価値観が制限されるし、固定観念の中で暮らすこととなる。新しいやり方を創造する喜びをなくしてしまう。
見た目には便利そうだが、それは一部分である。
あらゆる面で便利なものはそうそう存在しない。ある意味では何もしないで結果が得られるものが最も便利なものであろうが、これさえも単機能についてであり、何でもできるわけではない。そうであればあらゆる便利なものを組み合わせていろいろなことを行うこととなる。そのためには便利なものが自分の周りに溢れてしまう。いちいちその便利なものを買い集めるのも大変である。というか、そんなことは不可能である。あらゆるところで宣伝されている便利なものが本当に必要であれば、みんな買い揃えなければならない。そんなことできるわけがない。それほど便利なものは不要なものでもあることがわかる。
便利な機能の存在を確認することも煩わしいことでもある。
使う前にどのような便利な機能がついているのかを調べなければならない。使いたい機能がついていなければ新たに別のものを手に入れなければならない。機能があると思って使い始めて、機能がなかったときには作業を中断することになる。これも煩わしい。便利な機能に慣れてしまうと、その機能なしには作業が不可能になることになる。その便利な機能がなかったときには自分でその機能無しでなんとか作業を完了させていたはずである。そのやり方は忘れてしまっている。困ったものである。
はっきり言って、便利な機能は必要ない。
単機能でもいいから本来の高機能で使い勝手のいいものを追求したい。例えば、ナイフはナイフだけでいいのである。これにいろいろな便利な機能をくっつける必要はない。ただし、このナイフは基本機能に優れていて、性能の優れているものである必要がある。そうであれば、このナイフはナイフの基本機能を使っていろいろな使い方ができる。ある意味で万能なのである。その機能は使う者の使用方法と技能に左右される。そんな道具こそ便利なものでもある。そんな道具を使っていろいろなことができるのである。
これまでにいろいろ便利なものを使ってきたけれども、
便利と言われるものほど中途半端で使いづらいものが多い。結局は専門家のプロが使う道具に行き着いてしまう。ぱっと見た目に便利そうなものは使い込むうちにかえって使い心地が悪いことに気がつく。性能がイマイチだし耐久性も劣っていて、一度か二度使ったくらいでいつの間にかお蔵入りになってしまう。残っているのは結局は便利とは程遠い単機能の使用目的のはっきりしたプロ仕様の道具である。この機能を組み合わせればいろんな事ができるし、組み合わせは自由だし創造的な作業にも適している。
何でもかんでもプロ仕様というわけでもない。
一般的な便利グッズはやはり便利である。何故かというと、すでに巷に溢れていて、特別に便利なものでもないのである。ありふれた使い古された便利なためにみんな使っているからである。何かに特化した便利は唯一のものではあるが、あまり普及してないものでもある。要はこなれていないのである。あとは時たまにしか使わないものはあまり利用価値がない。反対に毎日使うようなものは厳選した、いいものを使いたい。道具だけでなく、衣服や食品や日用品や化粧品やペット用品やアクセサリーや時計・メガネ、文房具と上げればきりがない。いずれも商売人に乗せられないよう気をつけたいものである。
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