子供の頃悪いことをした時にそんなことをするとバチが当たるとよく言われた。
このバチが当たるということはどういうことなんだろうちょっと考えてみたい。バチが当たるためにはバチが当たる原因が必要である。その原因を作ってるのは自分である。その原因によってどんな罰が当たるのか自分でもよくわからない。それでもバチは当たるのである。そうであればバチが当たる原因を作らないように日頃から気をつける必要がある。どのようにすればいいのだろう。
ある時、 こめかみの筋肉を両手の指を使って上に持ち上げると喉の健康に良いという情報があった。
この情報をある人に伝えたらその人はそんなことあるはずがないと最初から馬鹿にして取り合わなかった。それはそれでいいので別に気にしなかったけれどもその後その人は咽頭癌で亡くなった。ただの偶然かもしれないが私はその時何か変な感覚に陥った。この何らかの因果関係を知ってるのは私とその人のみである。このことが原因で喉頭がんになったとは思わない。しかしその後私はこのことが気になってそれからずっと思い出したようにこめかみの筋肉を両手を使って持ち上げる健康法を実行している。
この健康法はハゲの防止にも役立つらしい。
頭頂部の皮膚が垂れ下がってくると頭蓋骨と皮膚の間に隙間がなくなって血流が悪くなるそうである。この垂れ下がった皮膚を持ち上げてやると血流が回復しハゲを防止するらしい。そして、喉が引っ張り上げられる作用で、喉に引っかかっているものが咳きとともに取り除かれ、スッキリする。やはり喉にもいいようである。この動作をするたびに過去にあったエピソードを思い出してしまう。そして、事あるごとに洗面台で鏡を見ながら咽頭がんにならないことを祈ってこの健康法を実践している。
このことの何が気になっているのだろう。
人の言うことを頭から信じないその人の性格であるようである。多分いろんなことについて他人から聞いたことに最初から馬鹿にして聞き入れない生活を続けてきたのだろう。そのことが健康に害を及ぼす原因さえも作り出していたのだろう。まずは受け入れて試してみてそれから判断する建設的な考え方が必要だったのだろう。他山の石として反省し、自らの行いを正していかなければならない。そういう意味では感謝の意が強い。悪い人ではなかったが、今でもその人の顔を時々思い出す。
近くの田んぼ道をウォーキングしているけれども、
あちこちにゴミが落ちている。このごみを捨てる人たちはどんな考えなんだろうといつも思い巡らしている。多分その人の生活はルーズなものであると類推できる。自然界の正常な循環を乱していることに気づいていない。自分の体についても正常な新陳代謝を維持できていないのだろう。そしていつかはバチが当たることになる。先人はこれを「バチ当たり」と称して警句を発していたのだろう。バチは即刻その場で当たるものではなく、長い間の蓄積によって発現するようである。その行いが生活全般の乱れを生じて、いずれかはバチが当たるのである。
バチが当たるのは体だけではない。
悪いことをすればその悪い事の影響がいずれかは自分に降りかかってくるのである。悪いことをすればその悪いことによって被害を受けた人がいる。その人は決していい感情は持たないだろう。そんなことを繰り返せば周囲には不信感を持った人ばかりに取り囲まれ、二進も三進もいかなくなる。バチが当たるのである。バチが当たらないためには周囲に向かって善い行いを繰り返すことであり、たとえ迷惑をかけてもその穴埋めを心がけることである。そうすれば少なくとも周囲の人からバチが当たることはない。悪いと思われることは、率先して直してゆく努力を継続することである。悪いことが蓄積してゆけばいずれかは大きな災難として降りかかってくることになる。
それでもバチは当たる。
その時は諦めるしかない。自分に対する試練だと思って乗り切るしかない。そのために一生懸命努力するのである。子供を観察していると、何事に対しても全力で一生懸命である。我々年輩になると、理性が働くのか、冷静に適当に塩梅良く対応してしまう。この一生懸命さが「バチ」を撥ね退けるようである。大いに反省して見習わなければならない。このところの「新型コロナ」もバチといえばバチである。進化しすぎた人間は何かを反省しなければならないのだろう。自然からの警句であり、すべての自然に背かれたら人間の未来は危うくなってしまう。
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