世の中の人間関係は尽くすことと尽くされることで表現される。
しかし、よく考えるとこの考え方は自己中心的で、他人の気持ちをよく考えていないことが解る。自分中心に「尽くす」ことと「尽くされる」ことが存在し、他人のことはあまり考えていないのである。もう一歩他人のことを考えに入れると、自分では「尽くす」つもりでも他人が受け入れない場合、「尽くされる」つもりでも他人はいやいや尽くしているかも知れない場合もある。自分中心に言うと「尽くす」ことを無理矢理相手に強制し「尽くされる」ことを相手に強要するという別の見方も出てくることになる。
「尽くす」ことの代償として「尽くされる」ことを強要することはできない。
それを強要するつもりなら「契約」で明確にしなければならない。通常の善意で「尽くす」ことの代償は求めてならない。善意は契約ではない。代償を期待した「尽くす」行為はビジネスではあるが善ではない。我々は意外と善人ぶって「尽くす」行為をしているが、通常は代償をある程度期待している。そして期待した代償がないと期待はずれのため怒りに打ち震えることになる。これは何かおかしいし偽善でもある。途中で「善」を違うものにすり替えていることになる。代償を期待するなら契約や約束で明確にすべきである。それをしないなら代償がなくても文句は言えないし、文句を言うくらいなら「善意」はかき消えてしまう。
「尽くす」ことを相手が受け入れるかどうかも相手の自由である。
もしかしたら相手は「尽くされる」ことを拒否しているかも知れない。本来は拒否されても文句は言えないのである。一方的に自己中心的に「尽くす」行為をされても困ってしまう。「尽くす」ことは幸福感を感じることができる。そしてさらに相手が感謝し喜んでくれれば幸福感は倍増する。しかし、相手が感謝し喜んでくれるかは基本的には相手の自由である。感謝し喜んでくれないからと腹を立てても仕方ない。反対に相手が拒否の態度を示した場合は残念ながら「尽くす」行為を止めなければならない。
これらの行為は「打算的」「お節介」という言葉で表現することもできる。
しかし、「打算的」「お節介」は結果としての周囲の評価であり、「尽くす」「尽くされる」という行為を行う上ではあまり認識されていない。「尽くす」「尽くされる」が自己中心的で他人をあまり意識していない証拠でもある。この自己中心的な「尽くす」「尽くされる」の考えが蔓延すると世の中がおかしくなる。特に閉鎖的な社会(例えば家庭)では、ある個人の自己中心的な考えの犠牲者として一方的に尽くす人、一方的に尽くされる人が生まれてくる。犠牲者から見ると、「尽くす」ことを一方的に強制され、「尽くされる」ことを強要されることになる。
核家族化で、家庭が少人数になり、しかも閉鎖的であると、
自己中心的な「尽くす」「尽くされる」を一方的に押しつけられる犠牲者が生じることになる。本来「尽くす」「尽くされる」は自発的な自由な行為であるが、「尽くす」ことを一方的に強制され、「尽くされる」ことを強要されることが長期間に渡って繰り返されると自主性も主体性も失われた欠陥人間になる可能性がある。外見的には完璧に幸せな家庭に見えるが、自己中心的な人と自己喪失の他律的な人が一対となって出来上がった不自然な家庭であり、それをすべて仕切っているのは自己中心的な独裁者とも言える父であり母である。受動的な人(子供)は人格を無視された愛玩動物やオモチャに近い扱いを受けることになる。
ところが、人間は愛玩動物やオモチャではない。
自己を主張する人格をもっている。幼児期にこの自己を主張する訓練がなされず、抑圧されたまま成長するとある時期に抑圧された自己が爆発することになる。これが「家庭内暴力」であり、学校に波及したのが「校内暴力」ではないかと思う。専制政治に対する市民革命みたいなものである。革命は暴力や破壊から始まる。稚拙かも知れないが暴力や破壊しか自己表現の手段がないのである。その暴力や破壊が強大であればあるほど自己が抑圧された程度がひどく期間が長かったことを証明していることになる。成長しきった大木の枝振りを大幅に直すことは多大な力を要するし、ある時期以降は矯正は困難になる。
暴力や破壊の対局は自閉もしくは逃避である。
周囲との接触を断ち、自分の中に閉じこもってしまう。その現れのひとつが「登校拒否」であり「出社拒否」であると思う。「強制されている自分」と「本来の自分」の区別が付かなくなっている。少なくとも「自分」を中心に据えてものを考えることができなくなっている。「自分」とは受動的に作られるものではない。もって生まれた特性と今までの経験と積み上げによって自ら作り上げるものである。何が持って生まれた特性かなんて自分で考えても解らない。あれこれ試行錯誤する中で何となく解ってくるものである。いや、本当はまだ解らない部分がほとんどかも知れない。それが「自分」であり、その過去の手探りから得た「自分」を中心に据えて世の中が回っているのである。自分の中に広がる宇宙と自分の外に広がる宇宙は同様の広がりを持っている。
昔、オーディオのテープデッキの再生ヘッドは定期的に消磁をした。
長く使っていると、ヘッドが磁気を帯びて正確に再生できなくなる。このためにどういうことをするかというと、このヘッドに強烈なN局とS局の磁場を交互に与え、この周期を徐々に短くしてかつ磁気の強度を減衰させてゆくと、最終的にヘッドは中性になり消磁できるという仕組みである。N局側にこれだけ片寄っているからS局の磁場をこれだけかけて修正する何てことはしないようである。第一、どれだけ片寄っているかの基準を持つのも難しいし、どれだけかけて修正するかを決めるのも難しいし、修正しても果たして中間に落ち着くのかは疑問である。
強烈なN局とS局ばかりに長期間曝されていると、
磁気ヘッドは強烈なS局やN局になってしまう。この強烈なS局とN局になることを止めようとすれば、強烈な反対方向の力で跳ね返さなければならない。磁気ヘッドにとってはこのエネルギーは大変なものである。サラッと述べているが、強烈なN局によって出来上がるのは強烈なS局なのである。凸と凹の関係でお互いに引き合うけれども本質は全く異なるものである。NとN、SとSでは反対に反発しあって同じ場所には居れないのである。気がついてみると、そこには強烈なN(S)局があり、自分は強烈なS(N)局になっている。ところが、人間関係の場合N(S)局が目指したものはS(N)局ではなくN(S)局であるところに悲劇がある。期待通りのN(S)局を育て上げた途端猛烈な反発を受けることになる。
人間はS局もN局も持っているし、凸も凹もある。
例えばSが善と仮定するならNは悪である。善の押しつけと善の強要をすると押しつけられ強要された側に善は育たない。ただの鉄であったものは強烈なS局(善)の受け手を強制されるとN局(悪)にならざるを得ない。もし仮に父や母が自分と同じ子供を育てようと思うなら、自分の中の善も悪も教えなければならないのである。それを善(悪)ばかりを教えると善(悪)の判断基準を失ってしまう。そして、自分以上の子供を育てようと思うならなるだけたくさんの人との関係を持たせ貴重な経験を積ませることである。その中では父や母は「お手本」ではなく人生の相談相手にしか過ぎないと思う。
S局とN局を善と悪にたとえたが、自分と他人でも構わない。
自分の考えを一方的に他人に押しつけると、他人はこれを無視するか面従腹背するしかない。これでS局とN局、凸と凹の関係ができるが、他人にとってはこの人は有害で邪魔な存在でこそあれ間違っても理解者や協力者としては扱わない。これが通常である。ところが、この人は他人のためによかれと思い熱心に行動を起こしているのである。この状態が悪化すると抜き差しならぬ状態になり最後は喧嘩別れする。赤の他人の場合は喧嘩別れすることができるが、肉親や親友の場合はそうはいかない。そこに悲劇が生じる。この原因は広い視野と相手の心情を理解する思いやりの欠除であり、一方通行のコミュニケーションである。
思わせぶりなたとえ話をしたが、
具体的な解決策は、過去の経験として強烈なN局やS局があってもいいが、そのバランスが取れていることが重要であると思う。少なくとも中間点を中心にバランスの取れた経験を積まないとN局やS局に極端に傾いた欠陥人間が生まれることになる。その中間地点付近がおおむね「自分」である。「自分」はいろいろなモノサシの集大成でもある。多分振幅が大きければ大きいほどより確かな自分が確認できるだろうし、片方に偏れば片寄った「自分」が生まれる。この自分のモノサシが形成されないと自分がどこにあるのか解らなくなる。モノサシの形成とは地道な毎日の些細な生活の中にある。それは解放された数多くの人達と数多くの関係を持つことの積み重ねでもある。
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