オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

電力のネットワーク化の提言

2007年08月05日 | Weblog

考えてみると、通信と電力は形態的に似ている。

 電力も電線を使うし電線の中を通るのは電気である。違うのはこの電線の中を通るのが「情報」か「電気エネルギー」かの差である。情報を生み出すのはコンピュータであり「電気エネルギー」を生み出すのは発電所である。通信の発達によりコンピュータネットワーク技術が飛躍的に向上し爆発的に普及拡大している。このコンピュータネットワーク普及の恩恵にあずかり「電力」も考え方を再構築したらどうだろう。

電力は発電した分だけ消えて行く。

 発電側は垂れ流しである。消費者が節電しても節電した分の電気が戻るわけではない。ただ電力会社に払う電気代が節約できただけである。節電効果は使用電力のピーク値を下げることには微力ながら貢献している。電力会社はピーク時の電力不足にならないためにピーク値の電力供給ができるように設備投資し供給電力量を調整することになる。電力会社としてはすでに確保した発電量だけで安定的に供給できる方が助かる。よって電力会社は節電を呼びかけることになる。もし供給電力が余っていたらじゃんじゃん使って電気代を払って欲しいのが本音だろう。使わなくても供給した電力は消えて行くのである。

現在の電力供給システムは無駄が多い。

 オームの法則をご存じであろう。V=I・Rである。電力は電圧×電流であるので、W=I・V=I・I・Rである。電力は電線に流れる電流の2乗に比例し、電線の抵抗値に比例する。電線には当然抵抗があり、その抵抗分の電力は損失となる。電流の2乗に比例するのであれば、電流はつとめて少なくしなければならない。効率的な送電は高圧線によってなされる。高圧線から分岐した電圧の低い電線は多くの電力損失を生じながら送電されていることになる。電気は近代文明を支える画期的なものであるが、現在の送電システムは極めてエネルギー効率が悪いことになる。

コンピュータネットワークを発達させたデータ通信で画期的だったことは、

 分散処理とパケット通信である。大型電算機を中心とする従来のシステムから多数の小型の分散処理装置を使ったシステムに変えたことと、時分割、空間分割を活用したパケット交換の考え方を導入したことである。100倍の能力を持つ化け物コンピュータを中枢に置くより1倍の能力のコンピュータを100台つないで処理することになる。能力が足りなければ台数を増やせばいいことになる。パケット交換は資源の有効活用である。資源を占有しないで使っていないときは解放した他人が使うことを許容し自分も他人の空いてる資源を有効利用することになる。

これを電力に応用したらどうだろう。

 電力使用の少ない深夜の電力を有効活用しようと言うサービスはすでに始まっているし、電力の使用状況に応じて発電所でこまめに調整する手法が取り入れられていると思うが、これをパケット交換と同じように自動化したらどうだろう。例えば、大口の電力使用が発生したら自動的に空いている資源から調達するシステムを考案すればいいし、全体の電力容量をオーバーしたら電力を消費する機器類は自動的に効率ダウンするシステムでもある。猛暑でクーラーがフル回転しているとき電力容量が不足したら自動的に効率をダウンして例えば18℃から20℃になってみんなが我慢するシステムでもある。これでは困るという機器には専用の発電施設を設置するのである。

分散処理については、

 大型の発電所だけでは能力に限界があるので、小型の発電所を多数設置するのである。大型の発電所から遠距離をわざわざ送電するよりも、自分で使う電力は自分のところで発電して使った方が効率的である。余った電力は電力会社が買電すればいい。すでにこのような試みは始まっているが、画期的に推進しているとは感じられない。是非政策として挑戦してもらいたいし、経済効果は衝撃的であると思う。へんな公共事業費の大量投入よりよっぽど景気回復に貢献できると思う。

電力だけの話をしたが、水道も同じである。

 水は再利用を考えなければならない。人間の身体は一日に6回も体内の水分を腎臓で再生している。身体の新陳代謝で必要とする水は1日に約180リットルだそうだが、人間が消費するのは1日に約2.5リットルである。ほとんどが再利用して使っているのが本来の自然の姿である。人間社会では、ほとんど水の再利用をしていないので、人間の身体で言うと180リットルを使いっぱなしと言うことになる。これが許されるはずがない。少なくとも一度くらいは再利用すべきである。現在上水と下水があるが、これに中水を加えることを提案する。洗車、トイレ、清掃、散布などの水は上水又は雨水を再利用した中水で充分である。

燃料も同じである。

 ガソリンエンジンの効率は、現時点ではあまりいいとは言えない。これも改良すれば画期的な経済効果を生む。ハイブリッドエンジンの発想があるが、これらの技術は大いに推奨すべきである。世界にも引けを取らない技術である。変な政府の景気回復策よりもよっぽど期待できるし、政府がやることはこれらを推奨し助長することだと思う。もっと言えば、蓄電技術であり、水素エネルギーなどの新しいエネルギーの開発である。放置しておけば消えてしまうエネルギーを効率的に蓄積しておくことができれば、また効率のいいエネルギー発生の仕組みを開発できれば画期的とも言える経済効果を生むことができると思う。

私が高校の時「日本は地熱発電でもう一旗揚げることができる」と豪語していた。

 日本は有数の火山国である。今現在でも有珠山で三宅島で火山活動が活発であるが、この火山国であることを逆手にとってエネルギー源として有効活用したらどうだろうと考えた。大学進学も地熱発電の研究の盛んなところを探したが、当時はそんな発想は少なくほとんどが火山研究が主体で地熱の利用技術は細々としかなされていなかったようであった。大学の卒業研究に選択しようとしたが、やはり指導してくれる教授もなく断念したのを覚えている。面白いから他大学の教授でも探して挑戦してみたらと言う助言もあったが、他大学の教授さえ見つからなかったのが実体であった。

「地熱発電」の次に目指したのは「農業」である。

 私の大学の第2志望は農学部であった。近代的な農業をやってみたかった。試験にパスして入学するまで時間があったのでその大学に事前偵察に行って教授陣や先輩に話を聞いたら、農業そのものを志している人は当時は皆無であった。みんな農林水産関係の官公庁や一流会社への就職を目指しているし、そんな将来像しか描いてなく失望したのを覚えている。結局この大学には行かなかった。「近代的な農業こそ将来の日本を救う」という当時の野望はすぐに砕け散った。「そんな周囲の環境にめげず挑戦してみれば良かったじゃないか」と言う人もいるだろうが、当時の私はそれだけの開拓者精神もなく、自分の才能を過信してもいなかった。

最後に選んだのが、情報処理の分野である。

 当時某大学に情報学部ができたばかりで早速そこに願書を出し、新設の学部ということもあり何とか合格できた。ところが、当時は学園紛争真っ盛りの時期で、その大学も移転問題で大荒れに荒れていた。大学を下見に行ったとき、そんな荒れ果てた光景をつくづく見ていると何となく嫌になってきた。結局その大学へも行かなかった。そして最終的に選んだのがとある大学であり、現在に至っている。そしてどういうわけか情報処理の分野を歩んでいる。地熱発電や近代的な農業を選択していたらまた別の人生が開けていたのであろう。これも多様性のひとつであろうか。

♪人生ってぇぇぇ不思議なものぉですねぇ♪


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