ずっと前だが、NHKの「中学生日記」と言う番組を見た時のメモがここにある。
ほとんど見たことのない番組だったが偶然チャネルを回したら未成年者喫煙禁止を題材にしたドラマをやっていた。ある熱血女子中学生が教師や警察から「未成年者はタバコを吸ったらイカン」と頭ごなしに言われているのにカチンときて「どうして大人は吸っていいのに未成年者が吸っていけないのか」と疑問に思い徹底的に調べまくって、実は110年も前の明治の頃に未成年者のことを一生懸命考えていろいろなことに尽力した一人の人物に行き当たりその人物の先見性と思いやりに共鳴してただの反抗だけでなく心の底から納得するという筋書きであった。110年前の人が自分達のことを一生懸命考えていてくれた。それに引き替え現代の大人・子供達は・・・・(ガックリ)。と言う思わせぶりな結末であった。
面白かったのは、
「どうして?」「なぜ?」「おかしい」「不公平だ」「納得できない」と他人を問いつめるだけでなく自分で調べて自分で考えて解決してみようと言う姿勢である。この主人公はひょんな事からこのことを同級生に指摘され引っ込みが着かなくなり意地になって自分で解決せざるを得ないハメになったが、通常であれば「やっても無駄」「かったるい」「めんどうくさい」「そんな暇がない」といってやる前から拒否するのがオチである。ところがこの主人公は意地になって調べ上げたのである。そうすると、新たな発見が生まれてきたのである。このような挑戦は心から応援する。また、そんな挑戦ができないような環境はぶち壊さなければならない。
調べ始めると、未成年者喫煙禁止の理由はまわりの誰も知らない。
「未成年者の喫煙は禁止だ」と取り締まっている側の学校の教師にも警察にも問い正したが誰も解らない。ただ「法律で決まっているから」の一点張りで「なぜ未成年者だけ吸ってはいけないのか」「なぜ20歳未満なのか」「諸外国ではどうなっているのか」の問いに答えられる者はいない。法律で決まっていれば何でもかんでも従わなければならないと言うのはおかしいと思う。少なくともその決まった経緯や背景や目的や考え方をはっきり理解して従うのが基本であり、最小限取り締まる側はこれらを知り尽くした上で取り締まらなければならないと思う。法律の文面だけで杓子定規に取り締まられたのではかなわない。
それでも徹底して調べまくった。
そうすると、110年前に「未成年者喫煙禁止法」を成立させた人物が浮かび上がってきた。根本正(ねもとしょう:1851-1933)という人である。この人は義務教育の必要性を説き、外国語教育の必要性を説き、そして未成年者飲酒・喫煙禁止法を制定した。明治の時代に世界に通用する有用な人物を育てるべく先見性と思いやりを持って多大な貢献をした人物がいたのである。現代の「大人達」はその大志を忘れている。「青少年の育成のために尽力している」という気概が失われている。そうでなければ未成年がなぜ喫煙禁止なのかの問いに答えられるはずである。それを「法律で決まっているから」で済ましているのは本来の目的を理解しているとは思えない。
「未成年者喫煙禁止法」そのものは、
青少年の育成のために最低限法律で決めているのであり、青少年の育成のためにどうあるべきかは自分達で個々に考えなければならないのである。法律を守ることは最低限である。法律で禁止されていないことで青少年育成にふさわしくないことはたくさんある。法律さえ守っていれば問題ないと思うのは大間違いである。20歳以上は法律上は喫煙が禁止されていないが、喫煙が健康を害するのは事実である。ということは、20歳以上であっても喫煙自体は推奨されるものでも模範となるべきものでもない。はっきり言うと健康にとっては「悪」である。それを未成年者が積極的に見習う必要はないのである。当然20歳以上も見習う必要はない。
そんなことをいろいろ考えると、
結局、未成年者(成年者も)が何となく喫煙している真意は「何も考えていない」ということになる。喫煙しなければならない理由も喫煙してはいけない理由も定かではない。「みんなが吸ってるから」「大人も吸っているから」「カッコイイから」「大人になった気分になるから」という軽い気持ちである。ただ、ニコチン中毒になって身体がボロボロになるのは何となく恐いとは感じているのか軽いタバコを口先でプカプカ吹かしているだけである。「どうせ吸うなら中毒になるくらい徹底して吸え」と言いたいが、そんな根性はなさそうである。そして、喫煙が健康に悪いことを認識しようともしないし、なぜ未成年の喫煙が禁止されているのかを理解しようともしない。
実は、私は、昔、大変なニコチン中毒でした。
朝起きてタバコの封を切る。昼にもう1箱タバコの封を切る。家に帰るともう1箱封を切る。翌朝は半分残ったタバコをそのままテーブルに置いてまた新しいタバコの封を切って出勤していた。要するに1日に2箱半(60本)以上を吸っていたのである。しかも軽いタバコ(当時はセブンスター全盛であった)はカスを吸っているようなもので満足せずロングピースであった。最後には紙巻きタバコで飽きたらずパイプも始めるほどであった。仕事柄から始まった癖のようなものである。始めたきっかけは兄貴である。帰省した時兄貴と夜遅くまで話し込んでつき合いで吸い始めた。私も人の悪口を言う資格はない。
たばこをやめるのに2年くらいはかかりました。
そして、やめた後5年くらい経っても朝起きた時唇を舐めるとタバコの臭いがした。まだ身体からニコチンが抜けきっていないのである。それほどニコチンが身体の隅々まで染みついていた。よって何回もフラッシュバックがあった。我慢に我慢を重ねて吸いたくてたまらなくて吸うときのタバコは肺の奥まで目一杯煙を吸い込み息を止めて味わい吐き出した息には全く煙がないほどであった。そんな経験を持つ者としては若者が恰好だけで口先でプカプカ吹かしているのを見ると「まだ修行が足りないな」と思うし「恰好だけならやめちまえ」とも思う。ただし私は今はきっぱりとタバコをやめている。理由はタバコを吸わなくてもいい生活習慣を身につけたからである。ここまでなるには大変な苦労をした。しかしこの苦労からは何の成果も生まれていない。この苦労を敢えてするというならどうぞいくらでもタバコをお吸い下さい。
話は元に戻って、
未成年者の喫煙を禁止した法律(1900年)をよく調べてみると、「未成年者の喫煙行為自体は処罰されない。親権者等の制止義務違反とタバコ販売者の販売行為は罰せられる。未成年者が喫煙のため所持するタバコ・器具は行政処分をもって没収される。」となっている。あくまでも青少年保護を目的とした法律であることが伺い知れる。法律上は喫煙した未成年者は処罰されず、親権者等や販売者が罰せられることになっている。未成年者は心して喫煙しなければならない。あなたが喫煙するのを制止しなければ周りの人が、売った人が罰せられるのである。白昼堂々と大衆の面前で未成年者が喫煙することは法律からすれば社会の大迷惑である。未成年者の方は他人に迷惑をかけないためにも喫煙する場合は是非誰もいないところでこっそりと吸ってもらいたい。そして販売した人が罰せられないように成人の人に買ってもらうことを薦める(ただしその買ってくれた人は罰せられるが・・・)。
先生も親も大人達もちょっと考え直さなければならない。
法律上は喫煙している未成年者は処罰できないのである。反対に喫煙を制止できなかった先生や親が悪いことになり罰せられるのである。ともすると喫煙している未成年者の罪ばかりを責め立てたがるが、法律の主旨は全く違うのである。法律違反をしたから悪いのではなく、未成年者の喫煙は身体に害を及ぼすから悪いのである。よってそれを保護するため制止できなかった親権者等と販売者が罰せられるのである。親権者等と販売者は未成年者が喫煙しようとしたら制止する義務があるのである。これをしなかったら制止義務違反で罰せられるのである。
法律の主旨を正確に解釈すると、
20歳以上は喫煙が許可されているわけでは決してない。未成年者の喫煙が禁止されているだけである。よく成人式で「20歳になってタバコが許可された」と喜んでいるが、誰もタバコを吸うことは許可してはいない。「成人になったら自分で考えろ」と言っているのである。成人になったら自分で判断できる能力を持っているとみなされるのである。そして考える能力のない保護すべき未成年者は喫煙をさせないようにしているのである。間違いのないように・・・。20歳未満とした年齢制限には異論のあるところだが、おかしいのであれば根拠を示して改正する努力をしなければならない。既に法律として決まっていることはまずは守らなければならない。
「未成年者の喫煙を禁止した法律」そのものを制定した頃は、
当初は18歳未満で検討していたが、徴兵検査で不合格となる主要な原因がタバコの害であり兵役となる成人の20歳まで喫煙禁止としたいきさつがあるそうだ。1900年当時と言えば日清・日露戦争の頃である。このいきさつからも当時でさえ青少年の健康をタバコがいかに蝕んでいたかが伺い知れる。タバコの害は現在も同じであり医学の発達とともにその害毒の全貌はさらに明らかになりつつある。そこでは健康にいいという研究成果は皆無である。吸うなとは言わないが健康を害するのは周知の事実なのである。調べれば調べるほど、考えれば考えるほどタバコの害が明らかになり、何も調べようとしない何も考えようとしない人達が安易にタバコを吸っているのを見ると情けない気持ちになる。「吸うなら断固とした信念を持ってしっかりと吸え!」と言いたくなる(長寿で有名な沖縄の泉重千代さんは信念を持った愛煙家で立派でした)。
「未成年者の喫煙を禁止した法律」はすでに110年前の法律である。
制定当初の考え方そのものは今でも変わらないと思うが、医学も科学も発達し社会情勢も変わってきた今、この法律も見直す必要はあると思う。未成年者だけを禁止するだけでなく、成年者の喫煙制限(特に妊産婦)も必要であろうし、吸う人だけでなく周りの人の健康も害しているのであれば嫌煙権も認めてやらなければならない。いまだに110年前の「未成年者の喫煙を禁止した法律」だけを後生大事に守り続けているのもおかしなものである。しかも制定当初の経緯や背景や目的は忘れ去られ「未成年者の喫煙は法律で禁止」だけが形骸化されて残っているのである。ことは「未成年者の喫煙を禁止した法律」だけにとどまらない。これはひとつの事例に過ぎない。
さてと、ここまで話してきて結びはどうなるかと言うと、
要は物事は何事でも自分で調べて考えて判断して処理しなさいと言うことである。教える側も教えられる側も、取り締まる側も取り締まられる側も、強制する側もされる側も、迷惑をかける側もかけられる側も、規則を守る側も守らせる側もみんな同じである。これを「規則だから」「みんなやっているから」「これまでもそうだったから」で済ましてしまうと何も調べないし考えないし判断もしなくなる。形は整っているが中身は空っぽの状態になってしまう。そういうものが巷に溢れている。そしていつの間にか形だけになってしまい形だけなら止めましょうということになる。それは昔からのすばらしい伝統がまたひとつ消えて行くことでもある。その伝統を消したのは何も調べない何も考えない何も判断しない人達である。
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