景気がいい、景気が悪いと一喜一憂しているが、「景気」とは一体何だろう。
辞書によれば「社会の経済活動の状況。活動状況や威勢がいいこと」とある。経済活動の状況を端的に示すのはGDP(国内総生産)だと言われている。このGDPの伸びが悪いと「景気が悪い」と言われる。しかし、GDPの伸びは前年に比し「悪い」のであって景気そのものが悪いわけではない。それでは絶対的な「景気」というものはあるのであろうか。私はないと思う。GDPは会社で言えば売り上げであって、日本国全体の売り上げだと思えばいい。この売り上げに応じた経営をしていけばいいのである。売り上げは大きいに越したことはないが、小さくてもプラスマイナスゼロでもそれなりに経営することは可能である。マイナスの赤字であっても借金は抱えるが信用さえあれば経営は可能である。
「景気」が悪いとなぜ問題なのか?
収入の少ない人への影響が表面化してくるからである。洋服がつんつるてんで末端の手足が大幅にはみ出してしまうのに似ている。それでも身体の中心部はしっかりと洋服の役割を果たしていることになる。これを解決するためには、末端の手足が大幅にはみ出した部分に手袋をしたり靴下を穿かせたりするなどの対策をしなければならない。これを大本の「景気」を良くすることで解決しようと思うのは無理があると思う。「景気」は良いときもあり悪いときもあるのが普通であり、悪いときに無理して良くしようと頑張ってもしょうがない。全世界的に考えれば景気の良いときと悪いときは最低限半々であると思う。
「景気」が悪いのは日本の経済構造が悪いせいであるという意見がある。
そして、声高々に「経済構造改革による景気回復」の必要性を政府は打ち出している。私に言わせると、景気が悪くなると日本経済の経営が困難になるような体質のほうが問題だと思う。景気が悪くても健全な経済活動ができ、しっかりとした対策ができ、次のビジネスチャンスの方策と手段を常に考えているような健全な体質を持つことの方が重要であると思う。いくら構造改革という大手術をしても日本国そのものの体力がなければ手術には耐えられないし、下手をすれば手術に失敗する危険性もある。大改革はしなくてもいいのである、小規模な改革を積み重ねていけばいいのである。「これが真理」というものはないのであり、今現在が真理であってもいつかは見直さなければならない。今現在の真理で全てを染め直してしまっては取り返しのつかないことになる。
今現在人が住んでいる家の「構造が悪い」からと言って全面改築されても困る。
下手をすると建て直しになりかねない勢いだが果たしてそうだろうか。たとえ建て直して立派な家が建ったとしても、住むのは人間であり、人間がその家で活動するのである。家は立派になっても住む人間の活動が変わらなければ「構造改革」の意味はない。極端なことを言うと構造改革だけでは目的を達成することはできない(一時的に景気が良くなることもあるかもしれないが)。それよりも今現在の活動を制限している具体的な事項をひとつずつ改善して行くことの方が優先されるべきである。
本当に景気回復を目指すならば、
今やらなければならないことは「人材の育成」である。経済活動をやっているのは「人」である。人材が枯渇してしまっては経済活動は低迷し、最悪の場合は停止してしまう。当然「人材」とは、諸外国と比較しても有用な「人材」を育てなければならない。諸外国に「人」で負けることは貴重なビジネスチャンスを逃すことでもある。ところが、現在の教育現場は荒廃する一方であり、教育そのものが混乱している。混乱させたのは「政府」である。いつまでも一方的な強制でもって教育が成り立つと思ったら間違いである。教育体制が整っていなかった時は、取り敢えず「やらせる」ことに意義があったが、体制が整ったら自ら活動する場を与え自活させなければならない。教育が親離れしていない印象が強い。そしてどうしたらいいのか自分でもわからなくて右往左往している。
40年前くらいに「でもしか教師」という言葉があった。
当時は優秀な人は「官庁に」「医者に」「弁護士に」「有名企業に」と就職し、それらの選に漏れた人が「教師にでもなろうか」「教師にしかなれない」ということで学校の先生になった。教育に優秀な人材を送り込む態勢になっていなかったのである。こんな事を言うとその当時教育者を志した人に文句を言われるかも知れないが、別にそう言う人をこき下ろしているわけではない。そう言う風潮があったのは事実であり、少なくとも成績トップグループの人が敢えて教育者を目指すということは当時はあまり聞かなかった。そう言えば、「学者になる」「政治家になる」と言うのも聞かなかったようだ。40年前があって現在がある。その現在は、教育が廃れ、学問が廃れ、政治が廃れているのではないかと思う。
人材を育成するのは、施設でもないし、教材でもないし、環境でもない。
やはり「人」である。しかもその「人」は量ではなく質が求められる。優秀な人材を投入しなければ優秀な人材は育たない。ちょっと昔を振り返ってみればすぐわかることである。緒方洪庵の適々斎塾(1838)、福沢諭吉の慶應義塾(1854)、吉田松陰の松下村塾(1868)などである。これらの優秀な人材が開いた私塾で育成された人材が政治経済の中心人物として活躍し、江戸から昭和初期までの激動の時代を支えてきたのである。これからの激動の時代を支える優秀な人材が今現在果たして期待できるだろうか。期待できないのであれば考え直さなければならない。そして20年後、30年後の人材を育成していかなければならない。ただ、今日明日来年の話だけをしていても根本的な問題は解決しない。これは「構造」の問題ではなく「発想の転換」の問題でもある。
景気をただのGDP(国内総生産)という数字で測って景気回復するのは簡単である。
外国企業を誘致して日本国内の経済活動を活発化すればいいのである。日本人がやってダメであったら、外国人にやらせればいいのである。GDPは飛躍的に伸びるであろう。今現在もすでにカタカナの横文字の外国の企業が日本で幅を利かせつつある。日本に人材が不足していれば海外から登用しなければならない。しかし、これは果たして日本経済にとって望ましいことであろうか、私はそうは思わない。日本も世界に伍して競争しなければならない。日本の人材が日本でも活躍するし、海外でも活躍するのが目指すべき目標だと思う。決して独占するわけではないが、日本の国としての取り分はしっかりと確保しなければならないと思う。それが日本国の存在価値でもあるしアイデンティティーでもある。
確かに景気が回復すれば生活に困るような人は少なくなる。
しかし、それだけでいいのであろうか。何か違うような気がする。求めるものはそれだけではなくGDPを伸ばすだけが目標でもない。本当の自分達の存在価値と能力を十分発揮して世界のために役立ち感謝されることが目標である。少なくとも我々日本人が主人公になって働ける場がなければ日本国の存在価値はないし、日本国が存在しているからこそ海外で活躍もできるのである。景気回復のために国を売ってしまうようなことがあってはならないし、それを何としても阻止しなければならない。それを阻止できるのは日本国の優秀な人材である。私は日本の総理大臣が政治・経済・外交・軍事の全てを統括し、しかもこれらを牽引する絶大な権限を持つにふさわしい人物が選出されているとはどう考えても思えない。やはり人材不足なんだろう。
景気が悪くなって、生活に困る人が出てくればその対策をすればいい。
生活に困っていない人から相互扶助の手を差し伸べられるような仕組みを作ればいいし、国がこれを支援してやればいい。儲けは少ないなりに配当も少なくなるのは当然の理である。そして困窮した部分に手当をしてやればいいと思う。失業者が出るのが悪いのではなく、失業者が出るのは仕方ないことであり、当然のこととして対策できる仕組みがあることが重要である。失業者対策として一時しのぎの大金を投じるのも考え物であり、緊急避難策としてはあるが決して最良策とは言えないと思う。要はその中身の政策だが、国会では中身の論議はさて置いて覇権争いに終始している。困ったモンである。
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