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ブログの記事がこの書き込みで300件になる。
300件に何の意味もないが、2006年5月から始めて「おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文」を気の向くままに書き込んで、気がついてみると300件になっていたと言うのが正直な感想である。全てが自分で勝手に思い感じたことを正直にぶつけただけであるが、読み返してみると自分でも「なるほど」と思うことが多い。ここに記録していなければ、その思いは時間の流れの中に埋もれて消え去ってしまうものだったのだろう。そして、今でも決して間違った事は述べてないと確認できるし、稚拙ではあるが「あるべき姿」を目指していることに偽りはない。
記事は自分の頭の中にふっと浮かんだ感動なり疑問なり違和感なり不信なり不満なりがきっかけになっている。
その思いは時が経つと消滅してしまう。あとで考えても何だったのかを思い起こす事はできないし、これを基に記事を書く事はできない。思い立った時に全ての思いをぶつけて一気に書き上げてしまう。老齢化の表れであるかもしれないが、考えてみると若い頃であっても、その時々の思いを詳細に記憶している事は少ない。詳細な記憶は一塊の概念として処理され、主体となる記憶だけがキーワードとして銘記されている。人格とはこれらのキーワードに対する反応であり、何ゆえにそのような反応をするのかは自分でもわからないが、これまでの自分の人生における経験から確固とした信念が生まれる。その理由は各別には自分の体験談として語ることはできるが、その信念が正しいかどうかは自分でもわからない。これが「人格」であろう。
昨今の有名人の言動を読み聞きしていると、この「信念」が感じられない。
特に政治家に多いと思うのは嘆かわしい事である。自分中心でなく周囲に自分を合わせている「自分」しか感じ取れない。まずは、現実を直視してつぶさに観察してもらいたい。現場に行って自分の目で見て自分で感じてもらいたい。そのような現状を自分の目で見つめて、自分なりの考えを持ってもらいたい。それはたぶん自分の今までの人生経験を鏡とした反応であろう。そこにビンビンと感じることこそ重要なのである。あらゆるところでビンビンと感じてもらいたいし、それらたくさんの思いを一塊の概念として、それでは将来的にどのようにすべきか、あるべき姿はどうなのかと言う議論になるし、そのような将来展望が定まってくれば、それに向かって指向努力してゆくことになる。そうすれば全体と個々がバラバラの方向になることはないと思う。
他人の情報を受け売りする事は自分を失うことに通じる。
せめて、自分の感性で信念に照らしてどうなのかと言うチェックはしてもらいたい。できれば、自分も現場に直接行って現地の空気を肌で感じてもらいたい。受け売りの、また聞き情報が肥大化して、実体のない仮想の、実体とは異なる情報に変質している。ふたを開けてみると誰も実体を理解していないと言う笑い話みたいな現実が生起している。みんな他人任せである。それぞれの部署の責任者はちゃんと現場を掌握しなさいと思う。「事件は現場で起こっているんだ!!」と声を大にして言いたい。
そしてもっと言いたい事は、
目を世界に向けて全世界的な視野で考えてもらいたいと言う事である。政治活動費は選挙運動だけでなくそんな調査研究に費やしてもらいたいし、選挙運動にかける経費は調査研究に回してもらいたい。選挙運動だけに右往左往しているような政治家は是非次の選挙では落選させて欲しい。理由は本来の政治活動を全くしていないからであり、最新の情報を獲得する調査研究努力をしていない政治家は最初から役立たずである。
正しい正確な情報が入力されなければ正しい正当な行動が出力されない。
入力に対して出力がある。少なくとも正当な入力でなければ妥当な出力はない。入力信号の処理はあっても、正しい部分を増幅するための処理であって、雑音を増幅するものではない。偏向バイアスをかけることもあるが、強烈なバイアスは本来の入力信号をつぶしてしまう。微弱な雑音信号を入力信号と勘違いして増幅処理して出力する事も可能だが、そこには本来の正しい情報は最初から存在しない。
正しい正確な情報とは個人の「思い」である。
ビンビンと感じた反応である。これを増幅処理して出力信号となる。その時周囲の環境に合わせた制御信号に基づいてバイアスやフィードバック処理がなされるだろうが、それはあくまで修正であって本来の入力信号を何倍に増幅するかという結果を決定するものである。バイアスやフィードバック信号そのものを取り上げても出力信号に対して意味はない。現在の政治家はバイアスやフィードバック信号にばっかり敏感に反応している。最終的には裸信号(入力と同じ)でも自分の考え(入力信号)を貫くと言う政治家は少ない。反対に何万倍何億倍にするためにはどんな入力信号にするかと試行錯誤することにうつつをぬかしている。そこに自分の信念はない。
政治家になったから政治家であることはおかしい。
ある思いがあって、その思いを果たすために政治家を目指し、国民の信任を得て、政治家になっているのであり、引き続き政治家であるためには、その思いを具体的に実現させる努力をしなければならない。そして何よりも、具体的に実現させる努力の成果を国民の前に示さなければならない。それがない政治家はいくら名前が売れていようと人気があろうと次の選挙で落選させなければならない。
「ある思い」とは、単なる言葉遊びであってはならないし、
政党のスローガンの繰り返しや、マスコミの甘い言葉の紹介であっても困る。政治家個人の人生経験に基づいた、自分自身が実現しようと思っている「思い」でなければならない。当然その「思い」は説得力をもって国民に説明され理解されるものでなければならない。そのために政治家であり続けることができるのであり、国民もこの部分を厳しく評価しなければならないし、その投票が国を良くする原動力となる。
あちこちで何かと事件が起きると「第三者機関を設けて検討する」と言う。
事件に一番習熟しているのは当事者そのものであるはずである。何ゆえ第三者機関に委ねなければならないのか。責任者が担当者が現場を掌握していない結果の顛末である。現場を掌握し問題点を発見し常に是正している組織であれば事件が起きないし、様々な問題点を分析し判断して将来的にどうすべきか、あるべき姿はどうなのかをそれぞれの部署で創り出して行く必要がある。たとえ創り出していてもそれが組織として有効に機能していないと思う。そして重要な部分がいつの間にかすっぽりと抜け落ちて当事者もそれに気付く事ができない体質になっていて、それを見つけてもらうために「第三者機関」が登場する。
第三者機関とはあらゆる分野の専門家集団とはいえ全くの門外漢である。
門外漢でもわかるようなことを見落としているのである。プロとしてあるまじき行為である。組織の上位下位に係わらず、それぞれの立場で個人はそれぞれの「思い」を持っている。まずはその「思い」を持つ事から始めて、その「思い」を具体的に実現する努力と試行錯誤を日々続けなければならない。それを達成する事が本当の生甲斐である。
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