人間は一人では生きて行けない。
周囲の何某かと関わりながら生きているし、関わらずには生きて行けない。その関りは周囲の者との共感を得ることを目的としている。あらゆる物事の価値も共感によって決定され、共感できなければ価値を共有することはできない。自分だけの価値を認めて物事を存在させることはできるが、いずれは周囲に共感してもらうことを追及し、理解者を求めることになるし、それが生きる事の価値でもある。自分の中に閉じこもっていても発展性も創造性もない。
物事の価値を決定する時、
自分の思っている価値が周囲の者と異なる場合、自分の思っている価値を修正するのか、周囲が自分の思っている価値と同じになるのを待つのか、又は自分の思っている価値を強制的に周囲に押し付け変えさせるのか、周囲の全てを無視して自分の殻に閉じこもるのかいろいろとあると思うが、手っ取り早いのは自分の思っている価値を修正することである。直ちに簡単にできる。全てを無視するのは人間性の本能から抵抗が大きすぎると思う。
例えば商品の値段である。
通常であれば定価とか標準価格とかがだいたい決まっている。周囲の環境が大きく変わらない限りこの価格は変わらないし、反対に業者は変わらないように経営努力して価格を維持し、ひいてはこれが安心感につながりお客の信用を得ることができる。お客様との共感を大切にしているのである。この値段がコロコロ変わっていたのではお客さんはどこに価値観の基準を持てばいいのかわからなくなってしまう。
値段が高いと思えばお客様は買わない。
それでも買うお客様は切羽詰まった必要性に迫られているか、通常以上の価値をその製品に抱いているのであろう。どちらのお客を焦点にして商売するかであるが、通常は高いと思うお客様を少しでも呼び込もうとする。そのためには利潤の範囲で経営努力して価格を努めて下げようとする。そこで需要と供給の調和が保たれる。まさに需要と供給が共感するのである。この共感がなければ物事の価値観は成り立たない。
物事の価値が単なる数値で決まるとすれば、
積み上げられた数値がそのものの価値であり、環境が変わればその要素は修正され、新たな数値が生まれる。そんな感じで物事の価値を決めれれたのではどこにも共感は生まれない。出された数値に需要と供給の共感から得られた修正値を加味する必要がある。それは積み上げられた要素を一つ一つ見直すことでもある。ただ機械的に繰り返して入力と出力の関係で出されたものとは違う価値が毎回生じるのである。
物事の価値は機械的に決まるものではない。
価値がある、価値がないと機械的に数値で価値を決めても共感してくれる人がいないと意味がない。共感の部分は人間が決めるのである。多数の人が共感してくれればその数値で価値が決まるが、いくら出力された数値がたくさんあっても共感がついてこなければ何も意味をなさない。共感を得るための手続きであり、共感を得るための試行錯誤の一段階に過ぎない。最終的にどの数値が大多数の共感を獲得するのかは結果でしかわからない。
自分でも訳の解らないようなことをグダグダと書いたが、
最終的に言いたいことは、AIにすべてを委ねることは無意味であると言いたいのである。やっぱりあくまで道具であり、道具を使って作り出されたものは人間によって吟味されなければならない。それを一方的に信じ込むことは大いなる間違いであり、すべての人間が信じ込んでしまえば、最も重要であるところの「共感」が生まれないのである。一人一人の人間が独自に考え一つの結論を出し、これを持ち寄って議論するところに「共感」が生じる。何も考えないのでは「共感」は生まれない。
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