オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

日本文化

2006年07月12日 | Weblog

テレビを見ていたら、外国の人を説得させるのに「サムライ」「ゼン」「ノウ」が有効だという話題があった。

 海外では日本の武士道や禅や能がすばらしい文化遺産として認識され、考え方の根拠をこれらの文化に基づいたものだと説明すると納得してくれるというものである。 なるほどと思ってしまう。翻って、日本国内を見渡してみると果たして武士道や禅や能を理解できる国民がどのくらいいるのだろうかと心配になってくる。たぶん海外では神聖化されたイメージをもって東洋の神秘としてとらえられているのだろうが、本家本元の日本としてはしっかりとした文化遺産として継承して行く責任と義務があるのではないかと思う。かえって海外の方が日本文化の研究と実践が進んでいるというのでは笑い話にもならない。日本文化はどうなってしまったんだろう。

精神や心には新旧はない。

 ひとつずつ積み上げて行くものであろう。日本には「考え方が古い」とか「時代遅れ」と言われることがあるが、本来精神や心には古いとか時代遅れということはない。押しつけられた何者かと相性が悪かったり、周囲が一斉に変わってしまって自分だけが孤立することはあっても、主客が変えるつもりがなければ変える必要もない。日本で「考え方が古い」とか「時代遅れ」と言われるのは、世の中があまりにも流動的に変化しこれに追随できない人達に向かった表現であり、古い考え方や時代遅れの考え方そのものが間違っているわけでもないし、いわゆる新しい考え方が正しいわけでもない。いや、安易に迎合して取り入れた新しい考え方よりも、伝統として継承されてきた古い時代遅れの考え方の方が本質的には正しいのではないかと思う。

日本人の精神や心とは何だろう。

 具体的には「日本人のあるべき姿」である。たぶん一言で言い表すことはできないと思う。ひとつひとつの判断事項に日本人のあるべき姿が染み込んでおり、それらが積み重なって集大成されたものが「日本人のあるべき姿」だと思う。結果としてのひとつの事実ではないし、手順でもない。あくまでも考え方である。武士道では、「仁」「義」「礼」「智」「信」という言葉で端的に表現している。「日本人はかくあるべし」なんて言うと、それこそ「考え方が古い」とか「時代遅れ」と言われて相手にされないが、今の日本人に最も欠けているのがこの日本人の精神や心であろう。効率主義、拝金主義、自由競争、実利追求、排他主義、利己主義等々いずれも日本人の精神や心には程遠い風潮が跋扈し古くさい時代遅れの日本人の伝統的な精神や心は捨て去られ反対に弄ばれている。

日本人のあるべき姿がもやもやとしてはっきりしなくなったのは、

 これまで積み上げてきた日本人のあるべき姿を捨ててしまったからである。近代になってよそから持ち込んだ学問や知識としてのあるべき姿を盲目的に追求してきたが、その根本精神は当然日本人とは相容れないものである。当然のことではあるが、戦後60年近くなってそのことに気づき始めているのではないだろうか。人への思いやり、人としての正しい道、・・・・・・・・・等が忘れ去られている。忘れ去られているとは教えることを怠ってきたことである。昔話や故事や美談や伝記や古文等から日本人の精神や心をひとつずつ教えていかなければならないし、それを実践できる精神や心を育てていかなければならない。ある日突然に「日本人のあるべき姿」が現出したわけではない。悠久の過去から絶えることなく積み重ねられ集大成されたものそのものが「日本人のあるべき姿」なのである。

「恥」ひとつをとってもそこには文化がある。

 考え方や行動に「恥」を感じとれる人と、何にも感じない人では文化的に雲泥の差がある。恥ずかしいことは人間の生き方として恥ずかしいのであり、周囲に多大の迷惑をかけていることでもある。そして人間として恥ずかしいことをしていても周囲に迷惑をかけていても全く意に介さない厚顔さそのものが恥ずべきことである。それでは、何が恥なのかであるが、それは子供の頃からひとつひとつ事例研究で教えなければならない。その事例毎に何が最良の考え方と行動かを教え導き考えさせなければならない。その教わったことに反した考え方や行動をとった時に日本人としての「恥」を感じるのだと思う。何も教わっていない人に日本人の「恥」もへったくれもない。

電車の中で傍若無人に大声で携帯電話をしている人がいる。

 まず、電車の中での携帯電話の使用ルールを無視している恥がある。次に周囲の人に騒音をばらまき迷惑をかけている恥がある。そして自分のプライベートな電話内容を大衆の面前で暴露している恥がある。相手の立場になって考えることのできない自己中心的な生活態度を堂々と宣伝している恥がある。最後に周囲の人からそのような目で見られているのを全く感じ取れない鈍感な恥がある。電車内の携帯電話使用だけでも恥だらけである。少なくとも遠慮しながら話すのであればまだ許せるが、傍若無人に正々堂々とやられるとこちらもあっけにとられてしまう。これらも子供の時からひとつずつ教えるべきであり、成人近くの大人になったら手遅れかも知れない。要は感性の問題であり、感性豊かな幼少期が最も重要だと思われる。

恥知らずな人の行為はスマートでない。

 「スマート」とはスタイルのことではない。日本語で「粋(イキ)」と言われるものである。誰が見ても合理的で無駄がなく万人が認める簡素な振る舞いである。合理的と言うと電車内の空き時間に電話した方が合理的ではないかと反論があるかも知れないが、自分中心のその場限りの合理的ではなく、万人に通用する普遍的な合理的なのである。日本古来の茶道も華道もこの頃は形式主義になりつつあるが、本来は「粋」の結晶であるはずである。「粋」には我慢がつきものである。その我慢を他人に感じさせずさりげなくこなすのが「粋」でもある。湧き起こる欲求をそのまま直接に実行するのでは理性のかけらもないし「粋」も感じられない。そんなことを考えながら周りを見渡すとどこもここも「無粋」のオンパレードである。人前での化粧、飲食、床や地面への直接の座り込み、禁煙場所での喫煙、ゴミのポイ捨て、低俗な週刊誌の氾濫、座席の占有等々あげればきりがない。

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