オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

信念

2006年07月13日 | Weblog

世の中がきな臭くなってきた。

 個人情報保護、迷惑防止条例、共謀罪、情報公開、セクハラ防止などなどである。善良な市民であっても徹底的に調べれば何かの法に抵触し違反しているかもしれない。わたし自身であっても完全に潔白であるとは言い切れないしそうだと言い切る自信もない。それでは犯罪者かと言われると、私はそのつもりはさらさらないし、罪を犯している認識はないし意図も意識もしていない。一体どうすればいいのだろう。

警察官であっても罪を犯す事があるのは間違いない。

 政治家も学者さんも教育者も宗教家もどんな聖人君主であっても罪を犯す事がある。全くないとは言い切れない。要は犯した時の対応であろうと思う。きっちりと説明がつけば形は法に違反していても潔白を証明できる。特に相手に損害を与えていない場合は個人の問題であり咎められる謂れはない。

次には、罪を認めないことである。

 自分が潔白であると信ずればあくまで戦うことが正義である。真実を曲げ妥協することは自己に対して不誠実である。そういう意味で警察権とは徹底して戦う覚悟が必要な気がする。奪われた自由は自分で取り返すしかないしその権利は何人も認められているはずである。有耶無耶にしない事が重要な気がする。

一般市民は警察権力には弱い立場にある。

 それでも自分が正しいと信じれば徹底して戦う覚悟をもつ必要がある。日本人は意外とこの当たりが淡泊で諦めが早くすぐに罪を認めてしまうし、まずは謝ったほうが無難で事なきを得ると思っている。「負けるが勝ち」「名を捨てて実を取る」という言葉もある。しかしこれは、どうでもいい些細なことに捕らわれるなという戒めであって、信義に反することを妥協せよと言う意味ではない。

戦う気概は誰にも必要なのである。

 日本人はこのところ戦う気概を忘れている。最終的には戦う決意があることを感じさせない。悪い言い方をすると「ふにゃふにゃ」である。ふにゃふにゃだからきな臭い雰囲気になってくる。信義に基づいて戦う気概があれば悪を断つことは容易である。悪につけいる隙を与えるからのさばるのである。のさばる悪を断つために司法権や警察権が幅を利かすことになる。

別に諍いを助長している訳ではない。

 最終的には戦う決意と準備をしておくことを奨めているのである。そのためには自分の行動に責任をもって、いつでも自信をもって説明できる心構えをしっかり持つことが重要になる。当然相手にも自分の考え方をぶつけて間違いはお互いに修正する謙虚さも必要である。間違いは間違いと堂々と是正を要求する堅固な意志を持って社会生活を送る必要がある。そのためには個人個人がしっかりした信念を持つことだと思う。

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