オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

いじめによる自殺

2006年11月18日 | Weblog

いじめによる自殺の報道がかすまびすしい。

 いずれも「いじめ」が原因で、「いじめ」をなくせば、問題は解決するという報道で、学校が、社会が、教育委員会が、国が、地域が、なぜ「いじめ」をなくせないかと問題提起している。いずれも、組織や集団に対しての攻撃であり、当然の如く報道では個人の責任だという主張は影を潜める。個人の責任だと言う主張は視聴者や購読者の反感を買い、人気を落としてしまう。マスコミ報道の宿命かもしれない。直接の原因は自殺に追い込むほどの「いじめ」をした人であり、間接的には「いじめ」や「自殺」を見過ごして止められなかった人、それに、自殺した本人にあると思う。

「いじめ」はなくならない。

 本質的に人間はいじめ体質を持っている。人間が10人集ればどこかでいじめが始まる。ましてや学校などの集団生活では「いじめ」は日常茶飯事である。悪戯も、競争して相手を負かす事も、相手と論争したりけんかしたりで相手をやっつけることも、広い意味ではいじめであり、やられたからといって、負けたからといって、悔しいからといって、その度にいちいち落ち込んで自殺を考えるような人間には育って欲しくない。少々の喧嘩はあるだろうが、人を殺してしまうような喧嘩は許されないのと同様に自殺に追い込むほどの「いじめ」は異様である。

「いじめ」はあるのである。

 「いじめ」が悪いのではなく、「いじめ」を上手くコントロールできないことが問題である。いじめる側も相手の人間性と人格を無視したような行為をしたり、いじめられる側も上手く対応できなかったりの中で、いじめをきっかけにのっぴきならない状態に発展し最悪は自殺に走っている。いじめる側といじめられる側の人間的交流が断絶してしまっている事と、親や兄弟や友人や先生や隣近所などの周囲との交流も断絶してしまっているところに原因があるようである。どこかに少しでも心の交流できる場があれば少なくとも自殺には発展しないのではないかと思う。

「いじめ」は必ず存在すると思わなければならない。

 学校側が「いじめは無かった」と言うのは詭弁に過ぎない。いじめがあっても気付かなかった、気付いても適切な処置ができなかった。自殺に追い込む前にいじめる側、いじめられる側に的確な指導助言ができなかった。と言うのが正しいと思う。自分達に責任はないと言う前に、そこの部分を素直に反省すべきである。ハッキリ言うと、親にも自殺に追い込まれている状況を気付かなかった責任がある。「責任」と言う言い方をしたが、これで罪を問うわけではない。大いに反省してこのような問題を早期に解決すべきである。責任のなすりあいをしてもしょうがない。

子供は繊細である。

 だから、大人がしぶとく生きる方法を教えなければならない。その教えるきっかけのひとつが「いじめ」である。「いじめ」にもめげない強い生命力を植えつけなければならない。反対にいじめたりいじめられたりしながら強く育ってゆくんだと思う。そんな中で「いじめが悪い」「いじめをなくせ」「いじめは諸悪の根源だ」と言う論調は何かおかしいと思う。常軌を逸したいじめが存在しているのも、いじめを理由に自殺するのも問題であるが、問題の本質を取り違えないようにしないと何も解決しないと思う。

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