フランスでイスラムに対する表現の自由が問われている。
賛成か反対かで国が二分すると言わんばかりの報道であるが、そうではないだろう。世の中にはやらなければならないこととやってはいけないことがある。報道の自由と宗教の自由がぶつかり合っているのだろうが、報道にしても宗教にしてもやらなければならないこととやってはいけないことは同じだろうと思う。自由を履き違えている気がする。
やらなければならないことをやる自由がある。
やらなければならないことをやらない自由もある。どちらを目指すべきかは明白である。果たしてムハマンドの風刺画を掲載することが「やらなければいけないこと」なのかは再考する必要がある。イスラムではムハマンドを具象化することを禁じている。その宗教上の考え方を尊重することも必要だろう。禁断の風刺画を敢えて掲載することが表現の自由でもなく、風刺画を使わなくても表現の自由は十分発揮できると思う。
やってはいけないことをやらない自由がある。
テロはやってはいけないことだろう。いくら正義でも正当でも、ほかに方法がない最後の手段であろうと、報復や復讐であろうとやってはいけない。やってはいけないことをやらない自由がある。この自由を侵す者は自由を害する者であり、真の自由を主張する者ではない。やってはいけないことをやらないためには自分の信念を貫く勇気が必要だ。自分でやってはいけないと思ったことは誰が何と言おうとやってはいけないのである。これが自己に対する誠実でもある。
何でもかんでも自由だ自由だと主張する人がいる。
そういう人に限って、安易に獲得できる自由に飛びつく。やらなければならないことをやらない自由であり、やってはいけないことをやる自由である。自分では何もしないで、大衆に迎合する自由でもある。自分の意思ではじめる努力はしないで、周囲の他人がやっていることを何も考えないでやってしまうことである。ここには自己の不在がある。真の自由を主張するためには確固とした自己が確立されていなければならない。そしてその自己を貫き通す意思が必要である。
世の中にはたくさんのやらなければならないこととやってはいけないことがある。
そのすべてに個人で対応することは不可能でもあるし、その意義もピンからキリまである。自由を発揮するのは、「自分」がそう思った時であり、その意思を貫くべきだと決断した時である。その意思を実現するための挑戦を封止することは誰にもできない。ただし、周囲には様々な意思を持った人達がおり、その人達の意思も尊重すべきである。信念を貫き通すことは難しいし、多大な努力を必要とする。それでも、この自分の挑戦を拒否する権限は誰にもない。
自己の誠実を主張する人達は尊重すべきである。
誠実とは自分の中から湧き出てくるものである。自分の人生そのものであり、生きとし生きてきた実績の集大成でもある。自己に誠実に向き合って真剣に考えた結論に間違ったことはないはずである。それが間違っている人は病んでいる。ただし、自分の自由を主張するためには他人の自由も尊重しなければならない。そこには違う他人との相互理解を必要とする。そのための努力も必要である。果たして、安易に自由を主張している人達にその努力があるのだろうかと疑問に思ってしまう。反対にその努力をする人には大いに賛同し尊重し支援したいものである。
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