オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

安定と混乱の話

2009年09月12日 | Weblog


安定は人間にとってとても心地良い。

 どちらかというと、常に安定のほうに指向し、あえて混乱を指向しようとする人はあまりいない。たいていの人はいかにしたら安定が得られるかを常に考えているのではないか。ところが世の中の風潮としてなかなか安定を許してくれないのが実情である。あちこちで安定を乱す原因をあえて作るようなような発言が跋扈している。バブルだ、ビッグバンだ、IT革命だ、リストラだ、技術革新だ、ボーダレス社会だ、高齢化社会だ、少子化社会だ、なんだ、かんだ・・・。どうやら人心が安定してしまうと利益があがらないと考える人たちの巧妙な画策ではないかと疑ってしまう。そして、最終的にその尻拭いをしているのは安定している人たちであるのがこれまでの実績であり、混乱のドサクサに乗じていい思いをしてきたのはほんの一握りの人たちであるようである。巧妙な画策をしているのはこの一握りの人たちなのであろうか。

ナントカ占いが流行っている。

 占いの究極の目的を考えてみると、不特定多数の人たちに何らかの行動を起こさせることではないかと思う。いかにも商業主義の目的にぴったりと合致している。「本日のラッキーカラーは赤です」何ていわれると、何か赤いものを身につけてみたりするが、まさか赤いものを身につけて家に閉じこもっているはずはない。当然ラッキーかどうかを確かめるべく外に出かけてゆく。結局は「家にこもっていないで外に出てゆきなさい」ということを暗に示唆しているだけのようである。当然外に出かければお金を使ってくれるし商売人が儲かる機会が多くなることになる。占いが積極的な生き方をすすめ、人に勇気を与えているといえば聞こえはいいが、消費活動を活発化させる手段だと言われると興ざめである。占いで占い師が儲かっているわけではなく、占いによって市民活動が活発化し商売人が儲かっているのである。反対の言い方をすると自分の静かな安定した生活が一方的に乱されていることにもなる(無視すればいいのだろうが・・・)。

世の中で叫ばれている混乱情報もなんとなく「占い」のような気配がしてくる。

 みんなが無視して行動を起こさなかったら混乱も起きないが、なぜかしら「大変だ、大変だ」とみんなでいつのまにか騒ぎ出し最高潮に達することを繰り返している。ところがこれが長くは持続しない。最高潮で安定状態に達しようとすると別の混乱情報が発信され別の波が押し寄せることになる。まるで占いの「本日のラッキーカラーは・・・」を毎日繰り返しているように・・・。しかし、この混乱といわれているものも、よく考えてみると表層的な部分だけにとどまっている気がする。深部では善かれ悪しかれ安定したものがうごめいている。まるで海のような印象である。混乱情報が「風」であり、騒いでいるのが「波」であり、風が吹こうと波が立とうと海底は静かに安定しているということであろうか。大型台風でもくれば少しは海底も動くだろうが、地球規模では些細なことである。

たとえば、1年間情報を断ってみて、本質的なところに影響があるのだろうか。

 確かに日々継続的に「あるべき姿」を目指して試行錯誤し努力すべきであるが、変化しているのは枝葉末節であり、大本の根幹が変化することはない。大本の根幹とは過去に営々と築き上げた成果であり実績でもある。何千年、何万年の歴史の中で1年くらいは微々たるものであるという見方もできる。反対に、たとえば昨年1年間に築き上げた成果は果たしてどれくらいだったのだろう。本質的にはほとんど変わっていないと言っても反論できない。どちらかというと往ったり来たりや堂々巡りの感が強い。ただし、この1年を切断することはできない。変化は求めないが継続は必要である。過去に築き上げた成果をそのまま維持し継続する努力は怠ってはならないと思う。

歴史の流れを海にたとえ、大木にたとえて見たが、

 我々が日々改善に努力しなければならないのは、海で言えば海底の深部であり、大木であれば大元の根幹である。この部分で悪いところを改善し良いところをさらに良くするようにしなければならない。海面や枝葉末節がどうあるべきかは全てが海底の深部や大本の根幹を見ながら検証しなければならない。そしてそのあるべき姿は現在だけでなく遠い将来を見通したものでなければならないと思う。そんな気持ちになって周りを見回して見ると、なんとも不毛で無駄な事柄ばかりがあふれている。どっちでもいいことを敢えて決めて見たり、重要な事柄でもその場限りの無責任なやり方で決定されたりしている。このような行いは本質的な部分においては悪であり、現在および将来に対して害を及ぼしている。本人達がそれに気づいていないで良かれと思ってやっているから救われないし、これを見過ごしている周囲の人たちも困ったものである。

無責任かつ無思慮な試行錯誤は成熟した文化ではなく、

 文化とは反対に安定した繰り返しにより成熟してゆく。試行錯誤をやるのであれば自分の責任の範囲であり、結果には責任を取る覚悟がなければならない。向こう見ずな冒険が許されるのは未熟な若い時期だけの特権であろう。未熟な若者とは経験と実績がないのであるから行動を起こそうとすれば向こう見ずな冒険の領域に踏み込むことになる。これを許さなかったら未来永劫行動を起こすことができないし経験も実績も積むことができない。向こう見ずな冒険とならないためには、まず「これまでの経緯がこうで」「周囲の状況がこう変わって」「ここの部分が問題になって」「過去の実績からするとこのような対策があって」「私の経験からこのようにしたほうがいい」と理路整然と説明ができ誰もが納得できることであると思う。周りを見回してこのような説明ができる担当者を見出せるだろうか?単に特権にあぐらをかき、思いつきだけのわがままを言い、駄々をこねているだけにしか見えない場面ばかりが目に付くのは私だけであろうか?



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