オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

減税は善政か

2009年09月05日 | Weblog

政治家は国民の人気取りのためにしきりに減税を打ち出す。

 しかし、減税は果たして国民のためにいいことなのだろうか。減税することは国が国民のために行うサービスに支払われるお金を削減することである。端的に言えば、国の国民に対するサービスが低下することである。「減税」「減税」と騒いでいる人達は国のサービス低下を望んでいることになる。今の日本で国のサービスに国民は本当に満足しているのだろうか。反対にまだやってもらいたいことがたくさんあるのではないだろうか。

日本において国民に重税感があるのだろうか。

 税金が高すぎて払えないとか、個人の最低限の生活が確保できないとか言う話はあまり聞かないし、私自身もあまり重税感はない。それなのに「減税」「減税」と大騒ぎする必要があるのだろうか。単なる人気取りのためのポーズに見えてしょうがない。国際的に見ると日本ほど較差のない社会を実現している国はない。国民総中流意識で、生活に困窮して生命に危険が及ぶような人は皆無とは言わないが稀である。

無駄に使われていた税金を効率化して減税するのは大いに賛成である。

 しかし、そうであれば「ここの部分をこのように効率化を図ってこれだけ削減できたのでこれだけ減税できる」と説明できるのが筋である。ところが日本の場合、闇雲なしかも「最初に減税ありき」のやり方の減税である。まずは減税して、対策は後で考えようというお粗末なやり方である。分析も事前の対応策もない。補助金のばら撒きも各種手当ての拡大も同じ部類である。「金」を分配するのでなく、集めた「金」を国民のために効率的かつ有効に使う具体的な事業を考えなければならない。

税制が不公平であるのも改善の余地がある。

 しかし不公平税制を改善することと減税は全く別のことである。日本のやり方は、減税をチラつかせて徐々に不公平税制を改善していこうと言う目論見が見える。したがって、いつまでたっても不公平税制が抜本的に改善できないでいる。文句を言わない取れやすい所からとって、本来の取るべきところから取っていない。不公平税制の何をどのように改善するのか「あるべき姿」を明確にする必要があると思う。

このように考えてくると、

 国民は減税を望んでいるわけではないことがわかる。確かに税金は安いに超したことはないが、その分国民に対するサービスが低下するのなら、税金を払ってでも十分なサービスを受けたほうがいいのではないかと思う。反対によりよいサービスを受けるためには増税してもいいとさえ思っているのではないか。治めた国民の税金も自分の家計費も本来は自分の金である。納めてしまった税金を他人の金と思うところに間違いが生じるし国の予算に無関心となってしまう原因がある。

国が国民の要望通りのサービスを提供していないのと減税は結びつかない。

 これを結びつけるのは乱暴である。「要望通りにならないならやめちまえ」という論法 になる。やめてしまったからそれで済むかと言うと、そうはいかない。その分は個人負担で個人毎にやらなければならないことになる。個人毎にやるのが効率が悪いので国、市町村単位でまとめてやっているのではないか。その仕組みをなくしたら国や地方自治体の存在価値はなくなってしまうし、本末転倒でもある。

国民は減税をしてくれとは望んでいない。

 税金を有効活用してくれることを望んでいる。今の政府や地方公共団体は、あまりにも無駄が多いし、効率が悪すぎる。しかもいろいろな施策が国民と遊離したところでなされている。この部分を改善してくれと望んでいるのではないか。「税金は払ってもいい、その分良質のサービスを提供してくれ」というのが本音ではないかと思う。

極端な例で、収入の全てを税金とした場合を考えて見よう。

 国内に通貨は流通しなくなる。政府は国民の望む全ての要望を満足してやらなければならないが、こんなことは困難である。共産主義社会がこんな感じかもしれないが、政府は国民に個別に対応はできないので、一律に平等に国民にサービスすることになる。全国民が少なくとも最低限の生活は保障されることになる。考え方によっては理想郷である。

しかし、民主主義としては不平等である。

 収入の多い人も少ない人も同じように扱われる。収入とは労働の対価であり一生懸命労働した人はその分のサービスを受けられるのが民主主義の言う平等である。この平等を実現しようとすると政府から国民個々の労働に応じた「労働証明書」を発行しなければならない。国民はこの「労働証明書」に応じたサービスを受けられることになる。しかしよく考えると、この「労働証明書」とは、もともと流通していた「通貨」と変わらないのではないか。

次に極端な例で、税金を一切徴収しない場合を考えると、

 国民は一人一人個々に自分の生活を確保しなければならない。国からの一切のサービスは受けられない。国も税金がなければ潰れてしまい、国自体が消滅してしまうことになる。社会生活の様相は太古の原始社会のようであろう。弱肉強食の平等が実現することになる。当然のごとく効率は極端に悪くなり機能は低下する。

どうやら「税金」は効率的にサービスを受けられて、

 なおかつ民主主義が実現できるような個人の自由度をもたせたものが理想のようである。効率的で良質のサービスを可能にするのは国のやり方であり税金の多寡ではないと思うし、出した税金分のサービスが受けられれば何も文句をいうことはない。国民が文句を言っているのは、サービスのやり方がまずくて効率が悪く要求と合致していないからであろう。

政府に言いたい。

 減税の必要はない。払った税金分のサービスをしっかりやってくれと・・・。たとえ減税してもその分のサービス低下は自分に返ってくるのであれば同じであり、その持ち出し分は減税の金額以上になるであろう。そうまでして減税してほしくないし、国にやってもらいたいサービスはもっとたくさんある。

国にやってもらうよりは民間サービスのほうがいい場合もある。

 そんな分野は国は手を出さないことだと思う。それこそ効率が悪いしやってもらう価値が全くない。民間サービスでできないことを国がやるべきである。その場合少々経費がかかっても採算が合わなくても仕方ない。やるべきことはなんとしてもやらなければならない。このような考え方で国の事業を見直してみたらどうだろう。

そして、最後に考えなければならないのが効率である。

 無駄を無くして効率を上げなければならない。国も民間企業と同じ感覚で最小限のコストで最大限の良質のサービスを提供することを考えなければならない。どういうわけか、国のやることは効率が悪いし、反応は鈍いし、的外れのことが多すぎる。減税よりもこのことに対する不満のほうが大きいと思うがどうだろう。減税を掲げて壮大な責任放棄をすることは許されない。


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