「既得権」という言葉がある。あちこちで聞く言葉である。
過去に認められている実績、もしくは一部で認められている事実に基づく権利である。既得権を主張する人は大概がこの権利をすでに保有する人達である。この人達は自分の保有する既得権が奪われようとすると猛烈に反対する。場合によっては政治を変えようとする力をも無力化してしまう。「今まで認められていたのにどうしてくれる」「政府が認めたからやってきた」「責任は政府にある」「これまでの生活を保障しろ」「そんなこと言うヤツは辞めさせろ」という強い主張であり、政策担当者もたじたじである。政治改革は一向に進まない。
既得権を個人または団体が新たに主張する場合も、
「過去に認めた事実があるのに認めないのはおかしい」「彼らに認められて我々に認めないのは不公平だ」という論法を展開して既得権を獲得しようとする。これを封じるために許認可には複雑怪奇な条件をたくさんつける。認める範囲を狭めて小出しにするのと、一般大衆まで拡大させないための苦肉の策である。いっぺんにみんなに許認可してしまったのでは効力(?)が発揮できないことになる。従って許認可にはがんじがらめの複雑怪奇な規制や条件がかけられている。この規制をクリヤできるのはこれに精通した長年の経験を持つ専門家でないとできないほどである。
日本の法律や規則には、許認可がほとんどで禁止は少ない。
許認可されていることはやっていいが、許認可されていないことはやってはいけないというやり方である。そのために何でもかんでも個別の許認可で、この許認可権は絶大な効力を発揮している。そして、この許認可はそれぞれの省庁や地方自治体で個別になされている。基本的には国が概略の基準を示し細部は地方自治体以下がやることになっているが、中身は中央集権で国がほとんどの許認可を握っていると言ってもいい。
国の決めた基準は最低基準ではなくそのまま最大基準となっている。
地方自治体以下はこの国の基準を厳格に守って許認可業務を実施しているだけというのが実態ではなかろうか。地方自治体の裁量権は地方固有のものを除いてあまりないのではないか。国が認可すれば地方自治体以下は右に倣えである。逆に地方が国の基準に違反する場合は中央からの猛烈な(無言の)反発を覚悟しなければならない。
この許認可も、ご多分に漏れず「タテ割り行政」である。
各省庁間の連携がとれているとは到底思えない。しかも、許認可の周辺には「金」や「票」や「利権」や「縄張り」という思惑がうごめき、その権利を死守し、または拡大するために各省庁は上から下まで許認可権のうま味を巡ってしのぎを削っている情けない状況にある。そして、この許認可権はあらゆる部署で行使されその領域は拡大する一方である。
許認可の考え方はバラバラで節操がないし、
時代とともに変化する。状況が変われば見事に柔軟(?)に対応してゆく。しかも、大本の規則そのものを変えずに個別の解釈で如何様にでもできるしくみになっている。また、大本の規則を盾にとって許認可を取り消すこともやろうと思えば可能である。これを認めるか認めないかは「上の声」次第である。ここでも水面下でわけのわからない政治がうごめいている。複雑怪奇にして不透明にすればするほど個人の得体の知れない職権を乱用するのに好都合である。どうやったら許認可できるかを始終研究し抜け道を模索して隙あらば旨い汁を吸おうとする輩が大勢いる。
このような許認可を繰り返しているから、
許認可する方もその「本来の根拠」を明確に説明できない。過去に認めたまたは誰かに認めた実績があるという事実だけが根拠となり、本来のあるべき姿とは乖離したところで許認可がなされることになる。許認可する方も受ける方も膨大な資料と過去の経緯を調べ上げなければならない。壮大な無駄である。(諸外国に対しこれが経済自由化の障壁となっているという利点(?)はあるようだが・・・。)許認可の周辺で過去の不届きな人達が自分の利権のために食い荒らし食い散らかした状態のままこれ以上放置しておくことはできない。日本の恥でもある。早期にあるべき姿に戻さなければならない。
そのためには、どうすればいいのであろうか?
不満を言いっぱなしでは何も進展しない。何らかの解決の糸口でも見つけなければならない。私は、この許認可権、既得権のはびこった根源はやはり戦争の後遺症であると思う。戦争により全てを失いゼロから出発し、敗戦国として戦勝国の言われるままに行動してきた歴史がある。許認可の対象となる「権利」は本来「国民」が当然の権利として保有していたものである。この権利は自由に行使して良いのである。その権利を全て剥奪されたところから出発しているから話がおかしくなる。剥奪された権利を「お上(当初はGHQ)」にお願いして最初からひとつずつ取り戻してゆかねばならなかった辛い過去がある。
「日米防衛協力のための指針」について、
新ガイドラインの調整が進んでいるが、これも失った権利を少しずつ取り戻しつつあるもののひとつである。本来独立国は当然自衛権を保有している。しかし、日本は敗戦と同時にこの権利を剥奪された。そして、この日本の軍事力の空白を埋めるために、一方的な日米安全保障条約を締結させられた。この条約は、包括的なことしか触れておらず、細部の取り決めは一切されてない。したがって一朝有事の場合は主導権を持つ米国に一方的に従わざるを得ない「任せっきり」の状況になる。やっとこの時期になって細部の取り決めを現実的かつ具体的に詰めはじめているわけであるが、いまだにこの片務的な関係が解消されているとは思えない。早い時期に独立国として対等の立場で(少なくとも自国内及び周辺における相互安全保障についてくらいは)具体的に交渉できる関係を持てるよう努力して行く必要がある。
話は横道に逸れたが・・・・、
ということで、この許認可権、既得権の弊害をなくすためには、この許認可されている権利そのものは本来国民側にあることを明確に打ち出すべきである。すなはち、国民が本来保有する権利そのものについて原点に帰って見直さなければならない。国民はこの権利を自由に行使できるのである。その行使に当たって社会生活を円滑にする目的を持って諸々の規制が存在するのである。この規制は当然国民が納得でき、説明できるものでなければならない。果たして現在の許認可に関わる規制が国民に納得でき説明できるものであろうか。「規則」がこうなっているから、「慣例」がこうなっているから、「過去の実績」がこうなっているから、としか言えないようではこれは最初から社会生活を円滑にする「規制」として有効に機能していない。
「規制」は社会生活を円滑にするために存在する。
原始社会では殴り合いで決着をつけていたのである。何度も言うが、最初に権利ありきで、この権利を社会生活の中で円滑に行使するための規制である。規制は国民相互の約束であり取り決めである。この本来の考え方を再確認しなければならない。日本の場合は新しいものに厳しい規制がかかる。何はともあれまず規制をかける。よく解らないのでとりあえず厳格ながんじがらめの規制を打ち出す。そして「これは許可、あれは認定」と徐々に小出しに許認可権を行使する。現在の考え方では一度認めたものは二度と取り消すことはできない。そうであれば、新しいものは既成事実がなく最初は何も認められない。仕方ないので新しいものを持ち出そうとする側は既存の許認可されたものをひねくり回して正当性を主張しなければならない。こういう世界が成り立つと言うことは、規制をくぐり抜けた悪徳商法も十分可能なことを証明している(現状がまさにその通りである)。
本来であれば、新しいものは新しい概念で自由に行動することができるはずである。
競争相手がいなければ規制する必要もない。自由な新天地に一人でいれば規制なんて必要ない。まずは自由にやらせてみる。その後に十分開拓され競争相手も出現した頃合いを見て問題点はないかを検証し、問題点に対して必要であれば最低限の規制を正規の手続きを経て、また国民の信任を得て法律化・規則化して円滑な社会生活を目指すのが本来の姿ではないかと思う。
事前にがんじがらめの規制をかけて、
徐々に小出しに許認可をする体質から、当初は国民の自由意志に委ねて、不都合が生じた部分にだけ国民の了解を得て最低限の規制を設けるというのが本来の姿であろう。そうでないと、訳の解らない不必要な規制ばかりとなり、しかも、一度認めたものは修正できない体質であるから旧態依然たる現実離れした規制が堂々とまかり通ることになる。これを個別に見直そうという努力もあまり見られずやりっぱなしである。(この頃若干改善の兆しが見え問題提起だけはなされているが・・・)。許認可権や既得権を見直そうとすれば、行政側に相当の覚悟と決断を必要とし、公開された徹底的な話し合いが不可欠であり、場合によっては行政側が過去の誤りを認めて訂正することも必要になるであろう。
当初は国民の自由意志に任せ、
機が熟し最善策が見つかったところで規制をしてゆくのが本来であろう。当然、一度設けた規制は常に最新の状態で見直されなければならない。見直す目的は社会生活を円滑にするためであり、理由は社会情勢の変化であり、くどいようだが、正規の手続きを経て、国民の信任を得て法律化・規則化しなければならない。規制の見直しや法律化・規則化は当然手間がかかる。そうであれば、公的な規制は必要最小限にすることである。規制に漏れた部分の不具合は個別に裁判で戦わせる方法もある。個別の事項は個別に対応すべきであり、何でもかんでも規制するのは融通性に欠け、意味がない。何を規制し何を自由にするかを見極めるのも重要な判断事項である。また、一旦法律化・規則化したら厳格に遵守させなければならない。そのためのチェック体制も重要である。
各種世界標準(通信プロトコール、電子機器、コンピュータのOS等)を決める時の手法を見ていても、
「最初に標準(規制)ありき」ではない。最初は各メーカーに自由に競争させて、その中で世界に普及した実績を持ち最も優れたいいものを世界標準として採用している。当然、さらに優れたものが登場するのは時間の問題であり、経年変化に基づく見直しは常に必要とし、ほったらかしにしたら即座にみんなからそっぽを向かれ世界標準そのものが無意味となるような世界である。公的な規制のやり方の一般方向と規制の継続的な見直しの必要性を示唆する好例であると思う。
しかし、日本の場合は、
「自由にやって良し」と言われると困惑してしまう風土にあるのではないか。何かの拠り所がないと不安でしょうがない。誰かの「お墨付き」がないと事業を画策することも推進することもできない。「失敗したときの責任は誰が取るんだ」と言われると次の言葉が続かない。これは、許認可する方だけでなく、される方も考え直さなければならないのではないだろうか?体制への依存体質を捨てて育ての親から乳離れし自立しなければならない。理由も目的も目標も価値観もやり甲斐も自分で見つけ出し、自分の決めた道を歩み、最終的な結果の責任も自分で取る意気込みと決意がなければ一人前に独立し権利を主張する資格はない。
最近、規制緩和という動きがあるが、
この許認可権と既得権にどこまでメスを入れられるか期待するところである。反対に規制緩和に悪のりして「何でも緩和」という輩がいるが、規制すべき事は規制しなければならない。「何でも緩和」では、国民は原始社会の「殴り合いで決着」の世界に戻らなければならない。政治の本来の仕組みを忘れてはならない。すでに戦後50年以上経過している現在、一朝一夕に画期的に改革することは無理である。しかし、ひとつずつ地道に、着実に改善して行かなければならない。それを怠ってきた結果が現在であることを肝に銘じなければならない。
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