オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

KY・・・空気読めない。

2008年04月05日 | Weblog

直接「空気読めない」と言われると気分が悪いのでKYと隠語で使われる。

 密かな流行語となっているそうだが、なかなかいい言葉を見つけたものである。こんな言葉が流行るということは空気を読めない人が増えている証拠だと思うし、空気を読んで欲しいという欲求が高まっていることだと思う。確かに街中を行き交う人を見ていると空気読めない人ばかりだし、最初から周囲の人々を全く黙殺しているような人ばかりである。そんな中で「空気読めない」と思う人達が増えていることはいいことだが、そうのたまう人は自分では空気読めると思っているんだろう。

いろいろな犯罪が起きているが、その動機を聞いてみると、

 意味のわからない動機ばかりである。「むしゃくしゃした」「誰でもよかった」「疲れた」「思い通りにならなかった」などなどである。たとえばこんな動機で人を殺してしまう。どう考えても人の命を奪う動機としては幼稚で思慮に欠ける。結局は自分のことしか考えていないし、相手のことも周囲のことも思考の中に入っていない。通常人の命を奪うのは止むに止まれぬ事情で考えに考え抜いた末に自分の命をかけて自分が生きるために自分の存在を確保するためにある決意を持って行われる。あまりにも安易な殺人に呆れてものも言えない。

だいたいが、そんな動機説明で周囲が納得してくれると思っているのが最初の間違いである。

 そんな動機をしゃあしゃあと語るのがKYそのものである。空気読めないどころか、最初から空気を読むつもりがないといったほうが適切かもしれない。空気を読むということは世間と共通の道徳や倫理を理解することである。道徳は法律や規則よりも優先される。法律や規則に反しなくても道徳に反することは世間から非難され排斥される憂き目に会う社会が健全である。たとえ刑事や民事の罪に問われなくても道徳に反することは許されるべきではない。この道徳が正しく維持されていることが健全な社会であることのバロメーターだと思う。

責任とはResponsibilityであり、Responsとは応答である。

 なした行為に対してちゃんと説明できることが責任をとることであり、社会に対してちゃんと説明できる人が責任者である。社会に対して説明できないことは責任が取れないし責任の取れないことはやってはいけないのである。昨今の犯罪の動機は全く最初から世間に受け入れられないものばかりである。「盗人にも三分の理」という言葉があり、本来であればせめてその一部でも共感できるものがあるが、昨今は全く理解不能である。本当に「空気読めない」の典型みたいなもので困ったことである。

「空気」というと訳の解らない無言の雰囲気からくる圧力もある。

 若者の言う空気とは肌で感じる感性であるらしい。ほんのちょっとした情報を敏感に感じて周囲の雰囲気を理解することとを意味している。本来であればこれらが集大成されたものが道徳であり倫理であり常識である。これらは感性や感覚・直感で読み取るものではなく明確に表現されるべきものである。これが曖昧になっていることが「空気読めない」原因になっているのではないかと思う。訳のわからない「空気」が幅を利かせることは危険でもある。ズバッと本質に迫った議論と、しっかりとした道徳、倫理、常識を地道に育ててゆくことが必要だし、過去から未来へ通ずる一本の変わることのない伝統が築かれることを切望するものである。


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