新聞記事を何気なく眺めていたら、
子供放置禁止を埼玉県が条例化したとあった。内容を見てみると、子供を自宅に放置したまま外出したり、車の中に置き去りにしたりする行為を児童虐待と位置づけて禁止する条例改正らしい。罰則規定はなく、小学3年までは禁止、小学4~6年の児童は努力義務らしい。この記事を読んでいて、この条例を定めてなんの意味があるのだろうと思ってしまう。注意喚起するだけなら何も条例で明文化する必要はないだろう。何を目指して条例としているんだろうか?いずれは罰則規定を設けようとしている経過措置なんだろうか。
子供の放置とか、虐待などと別の言葉を使うから訳がわからなくなる。
児童虐待防止法にさえ接近禁止命令違反以外は罰則規定はない。虐待の刑事罰は具体的には暴行、傷害、強要、保護責任者遺棄、ひどい場合は殺人ではなかろうかと思う。あまり意味のない条例を定めるよりも、本来の刑事罰を適用して考えたほうが現実的かつ具体的であり、子供の放置とか虐待が刑事罰になることを明確に示して、厳格に罰することが必要だと思う。そこの部分がいい加減で曖昧なために安易にそのような行為に及んでしまう。いじめ、パワハラ、セクハラ等も同じであろう。だからといって、警察機能にすべてを任せてしまうのも困ったものだ。警察機能をうまく使うこと、協力することが重要だと思う。
千葉県が多様性条例を検討しているそうである。
目的は、「誰もが活躍できる社会の形成を総合的に推進すること」らしいが、これって誰が考えても常識的なことである。これを地方自治体が大声を上げて条例で明言しなければならないことこそ問題だと思う。そんな社会が実現できていないことを自白しているようなものである。そのために自治体として何ができるかを検討すべきなのだろう。重視すべきは「教育」だと思う。地道に教育することしか解決策はないし、今までもやってきたのだろう。そこが間違っていたのなら、その部分を改善してゆかなければならない。障害者や性的少数者だけの話ではない。また、そこだけ特別扱いするのも、特別扱いしなければならないのもおかしい。
「トリチウム魚に蓄積せず」の見出しが踊っている。
今更何を言っているのかの感がある。そのくらい放出する前に確認すべきであったろう。そしてその結果をもって安全への説得材料にすべきだったのだろう。魚に蓄積するのかどうかも不明なままで放出したというのだろうか?大体が、トリチウムは水の状態では自然界の中では普通の水と何ら変わらない。生物に取り込まれるとそのまま排出されるのが普通である。ただし、生物の体内に水素分子の状態で取り込まれ、その水素で人間は全体の10%の水を作り出して排出しているそうである。その分の水素分子は体内に留まることになるが、そのうちのトリチウムは微々たるもので影響は殆どないと思う。
あちこちで凶悪犯罪が起こっている。
犯罪の動機や理由を聞いていると、まるで理解できない低次元の子供みたいな発言をしている。どうしても犯罪を犯した者を責めたくなるが、よく考えると、普通の常識人が考える基準とは考え方に大きな乖離があるのではないかと思ってしまう。彼らの発言はそのまま彼らの本音なのだろう。そのような考えしかできないのだろう。なぜそうなってしまったのかを考えて問題解決しなければならないのだろう。これも教育であるような気がする。教育と言っても学校だけでない。家庭教育、社会教育、職場教育、等であろう。そこが考え直さなければならない。そして、劣悪な社会風潮が彼らを生み出しているのである。
社会は落ちこぼれで片付けてしまうが、
落ちこぼれと決めつけた基準は誰が持っているのだろう。また、落ちこぼれこそ教育が必要なのであり、落ちこぼれになったところから教育し直さなければならない。それが本当の教育であるが、切り捨てるだけで誰も真剣に向き合ってくれないのだろう。だからますます落ちこぼれになり、気がつけばどうしようもなくなって、社会不適応で周囲ともコミュニケーションが取れず、暴力行為、犯罪行為に破壊行為に発展してしまうのだろう。3歳まで、小学生までの教育がとっても重要であり、中学生以降も落ちこぼれしないような教育に徹しなければならないし、落ちこぼれを見つけたら、小学校、中学校に戻って落ちこぼれたつまずきを直してやらないとならない。落ちこぼれを前提に被教育者の立場になって見守り、親身に寄り添って教育するような機会を失ってはならない。
褒める教育とか、個性尊重教育とかよく言われるが、
褒める基準は教育する側にあり、個性と認める基準も教育する側にある。その基準に合わない者は教育の対象から外されてしまう。その部分が忘れられている気がする。その基準に引っかからない者は無視され放ったらかしにされてしまう。褒められることもなく自慢できる個性もない者はそれこそ落ちこぼれ扱いにされてしまう。最初から褒められるような個性的な人間なんてそんなにいないのである。良いことも悪いことも含めて認めてやることが必要だし、教育者が良いところばかり探していると、落ちこぼれた被教育者は自己嫌悪に陥り自己肯定感を失ってしまう。これが永遠に続くことは地獄に近い。そんな観点から見つめ直す必要がありそうだ。
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