オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「アメとムチ」でなく「ムチとアメ」

2023年10月19日 | Weblog

ウオーキングの途中で鴨の親子を見た。

 用水路で、段差があるため雛達が昇れないでいる。上では親鳥が待っているが、手助けしようとか、元に戻って後押ししてやろうとかの気配は全く無い。当然といえば当然だが、自力で昇り切ることを強制している。我々人間が傍から見ていると、ヒナ達が健気で可愛そうで何とかしてあげたい気持ちになるが、親鳥はただ上の段で雛達が昇ってくるのを待っているだけである。ただ、感心したのは親鳥はそのまま見捨てて先に行くわけではなく、しっかりと見守っていることである。上の段から応援しているような感じでもある。

この親鳥のヒナ達に対する教育のやり方に感心した。

 親鳥としては雛達を教育する義務がある。その内容は、自主自立である。自分で難関を乗り越えなさいと教育しているのである。私はその教育の場に立ち会ったことになる。雛達が困っていれば、真っ先に助けてやるのが親の気持ちでもある。しかし、敢えて手を出さないで雛達に挑戦させている。これこそが教育であり、この部分がないと教育の本質が抜けてしまうことになる。本当に教えなければならないのはこの部分なのである。昨今の人間世界の教育現場を見てみると、何でもかんでも手厚く保護して、困難を取り除いて、挑戦させることもさせないで、言葉だけの知識や知恵を与える教育ばっかりやっている気がする。

もう一つ大切なことは、見守ることである。

 雛達の挑戦している姿を親鳥がじっと見守っていることの大切さである。その事によって雛達は安心して挑戦でき、親鳥の期待に応えて最大限の努力をするのである。基本的には雛鳥とは言え、親鳥ができることは、努力と工夫をすればできるようになるのであり、親鳥としてはできてもらわないと困るのである。これから生きていく上で重要な「しつけ」でもある。この一つ一つの「しつけ」をやる機会を失ったら、雛鳥達はいつまで経っても成長できないし、自立することもできない。雛鳥をそのままの状態で餌を与えて育てるだけでは当然ながら立派な鴨にはならない。自分で立派な鴨を目指そうとしても、何をすれば良いのかわからないだろう。

今の教育現場で「見守る」ことが実践できているだろうか?

 私にはどうもそう思えない。基本的には放任主義であり、本人の自主性に任せて、問題が起きない限りそのまま見過ごされている。問題があってもなくてもちゃんと見守ってやるべきなのである。そして、見守るためには何らかの課題を与えてやらなければならない。その課題に向かって挑戦させるのである。その課題を与えるのは教育者であり、その課題に挑戦させるきっかけを作ってやるのも教育者である。一人ひとりの被教育者にその人にふさわしい課題を与えて挑戦させ、その挑戦している姿をじっと親身になって見守っているような姿を教育現場に見ることは少ない。嘆かわしいことである。

教育というとすぐ学校ばかりが槍玉に上がるが、

 教育は、家庭教育、学校教育、地域教育、社会教育、職場教育、国の教育、などなどたくさんの種類があると思う。国にも国民を教育する義務がある。国の行く末を国民が納得できるようにちゃんと説明でき信用できることは、それだけで国民の教育になる。国の進もうとしている方向が国民の進もうとしている方向であり、そのために努力することが国民の義務でもあり、生き甲斐でもある。そのような共有できる目標が掲げられることがすなわち教育でもある。そして、国はそのことに対して国民に働きかけるのである。それは強制でも強権でもない。封建主義、軍国主義の再来でもない。そこを躊躇する必要はさらさらない。

教育の現場で、被教育者に強制することが躊躇われている。

 最初の取り掛かりは大いに強制すべきである。そして、被教育者に様々な挑戦ができる機会を増やしてやるべきである。入り口は多い方がいい。とにかく挑戦させてみてダメかダメでないかを決めるのは被教育者本人なのである。だからといって、挑戦させるだけさせといて、放ったらかしでは困ってしまう。先程も述べたように余計な口を出さないで、無駄な手出しをしないで、じっと見守ることが大事なのである。請われれば助言もするだろうが、それはちょっと先輩としての助言であって、それを強制するのもご法度である。そして良好な成果が出たときは大いに評価して褒めてやるのである。

褒める教育というのがあるが、

 放ったらかしておいてたまたま良いことをしたら褒めるのでは、たまたま良いことをするまでじっと待たなければならないし、たまたま良いことをしたのを見過ごしてしまう。もっと言うと、その被教育者にとって何が良いことなのかの評価も曖昧である。それよりも、一つの課題を与えて挑戦させることによって、目的がはっきりして、向かうべき方向もしっかりして、やっていることも、その評価も確かなものとなり、具体的な褒める教育ができると思う。その最初の課題を与えることが重要であるが、どうも教育現場ではこの部分が抜けている気がする。最初のムチを躊躇ってしまってアメばかり与えている気がする。まぁ、被教育者にとってはアメのほうが大歓迎であるが、何のためのアメなのか、教育そのものが何だったのかがすっぽりと抜けている、困ったものだ。


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