世の中にはやっていいこととやってはいけないことがあるが、どちらの領域が大きいのだろう。
生まれたばかりの子供は自然のままであり、人間社会を知らない。やっていいこととやってはいけないこととは人間社会が作り上げた決め事である。よって生まれたばかりの子供はやる事なす事「やってはいけないこと」ばかりである。まずは人間社会の先輩たちは生まれたばかりの子供に対しては「やってはいけないこと」を教え込まなければならない。その学習によって「やってはいけないこと」の領域が明確になり、「やっていいこと」の領域が確定して行くのだと思う。
「やっていいこと」と「やってはいけないこと」の境界は明確ではない。
絶対的、固定的なものではない。だからむつかしいが、その場その場に応じてひとつずつ根気よく教えて行かなければならない。それによって人間社会の根本精神みたいなものを身につけるのだと思う。その根本精神は社会生活をやっていく上でとても大切でかつ便利なものでもある。この根本精神を身につけていないとその人の社会生活は非常にぎくしゃくしたものになるであろうし余計な摩擦やいざこざが絶えないで、かえって自分の本当にやろうとしていることが実現できないと思う。やってはいけないことを教えることは社会生活における自分の可能性を広げているのである。
やってはいけないことを教えることに反発がある。
まずは、その人の個性を潰すのではないかと言う危惧である。これは何でもかんでも「やってはいけない」と言う教える側の姿勢に問題がある。個性を伸ばす芽までも潰してしまっているのである。画一的かつ機械的な「やってはいけない」教育も意味がない。教えるのはやってはいけないことそのものではなくやってはいけないことを通じた社会生活における根本精神である。画一的・機械的なものでは精神は育たないし、精神のないところに個性も育たない。人間対人間の関係で全人格をぶつけながら真剣に取り組むことが重要であろう。規則だ法律だ決まりだというだけでは教育にはならない。そんなに難しいことではないと思う。教える側が自信を持って自分の考えに基づいて教育すればいいのであり、自分がこれまでに培ってきた生きた知恵を教えてやればいいのである。
次に、教わる側の反発がある。
この反発は、ある程度強制でもいいから乗り越える必要がある。まず世の中にやってはいけないことがあるのを理解させることが大切である。次に本当にやってはいけないことを我慢する勇気と忍耐を教えることが大切である。「反発があって教えられない」というのではいつまでたっても教えられない。白紙状態の子供から大人になるまでにどこかで教えなければならないのである。先天的に備わったものではないのである。未完成の子供を信頼できる熟成した一人前の大人と同じ扱いをしてはいけない。反発にもめげず教えてやらなければ貴重な学習の機会を失ってしまう。誰かが教えてくれるだろうという楽観的な考えもあるが、全員がそう思ったら誰も教える人はいない。反発を繰り返し、その反発が通用することを学習すればするほどその子供は社会性を失って自己中心的な我が儘な人格に育って行く。ただし、個性を伸ばすための反発は大いに結構で、この時は教える側と教えられる側の個性がぶつかり合うことになるが、この個性のぶつかり合いを利用して教える側がうまく善導してやることが重要である。
考え方によっては、やっていけないことは無限に存在する。
教え方として、やっていけないことを一つ一つ教えるよりも、やっていいことを教える方が効率的かもしれない。これが「褒める教育」だと思う。自発的にやっていいことをやった場合はしっかりと褒めてやり評価してやる。このことが生きる事に対する自信となる。ややもすると、叱る事ばかりでやっていけない事だけを教えようとするが、これでは窮屈で仕方ないし、何も出来ない状況になってしまう。結局はやっていいことを模索しているんだから、やっていい事は奨励してやるべきなのである。でも、甘やかすことなく褒めるのは難しい。お互いの関係が親密で信頼されてないとできない。
最新の画像[もっと見る]
- 議員先生と学校の先生との違い 2年前
- SDGsともったいない精神 3年前
- 発想の転換 3年前
- 発想の転換 3年前
- ワンニャン仲良し 18年前
- ワンニャン仲良し 18年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます