死に時は自分で決めたほうがいいらしい。
決めた死に時よりも早く死んだら早死にである。死に時以降も生きれたら儲けものである。若い年齢に死に時を決めたら早死にする確率は小さくなる。高齢になる年齢に死に時を決めたら早死にする確率が高くなる。どの年齢に自分の死に時を決めるのかは個人の自由であるが、死に時までに自分の生活設計を決める必要がある。それが一つの区切りとなる。それまでに人生を全うできるようにしっかりと計画する必要がある。死に時を迎えたら、何も思い残すことがないという心境であるべきである。早死は突然ではあるが死んでしまえばそれまでである。早死でなくても死は突然に訪れる。
死に時以降は人生の余録である。
好きに生きたらいい。すでにやるべきことはやっているんだから何も思い残すことはない。下手に寿命を伸ばそうなんて考えることもない。生への執着もないはずである。ストレスなく気楽に死を迎えることができる。死に時を意識しないでいい加減に気楽に生きていたから思い残すことがあって、このままでは死ねないと思ってしまうのだろう。結局、死を意識するということは、今現在を心置きなく最大限に力いっぱいに生きることだと思う。その過去の頑張りがあって後悔のない人生を作り上げているのだろう。
人生の終末にあたって慌てることはない。
すでにたくさんの自分なりの業績を積んでいるのであり、体力も精神力も気力もなくなりつつある今になって何をしようと言うのだろう。別に新たなことに挑戦することに反対はしないが、若い時ほどの成果は望めないだろう。老齢なりの成果を求めてさらに頑張ることは否定しないが、それが大きなストレスになることは避けなければならない。気楽に楽しくやればいいのである。すでに自分の決めた死に時は過ぎているのである。高度の成果を求められているわけでもないし、余生の期限も限られている。
死に時を迎えていて、更に大きな新しい業績を残そうとは思わない。
たとえば、今更試験勉強をして大学に入学しようとも思わないし、入社試験を受けて新入社員から頑張ろうとも思わない。子供を作ろうとも思わないし、新しく家を建築しようとも思わない。私的にはすでに終わったことなのである。これ以上何をしようというのだろう。するにしても、過去の業績に比して大げさなものではないはずである。日々の幸せが最高の喜びなのであり、その幸せを見つけることが生き甲斐でもある。幸せはいくらでも転がっているし、やろうと思えばいろんなことが可能であり、若い頃に比べてしがらみも強制もなく極めて自由である。こうして余生を過ごせばいいのである。
死に時を決めることは延命に固執しない。
自然に死にゆくことを望んでいる。それでいいではないか。高齢者医療の高騰が社会問題になっているが、私に言わせるとあまりにも延命に固執する人が多すぎるのではないかと思う。延命は医療に頼らなければならない。ところが、医療に頼った途端に医療の言いなりになることを強制される。医者も途中で投げ出すわけにいかないし、病気が判明すれば治療しなければならない。少しでも延命の可能性があればこれを追求せざるをえない。これを怠ると最悪は殺人罪に問われることになる。延命に固執してもいいことはなにもない。伸びた命で何をしようというのだろうか。
自覚症状があっても困っていない限り医療に依存しないことである。
健康寿命を伸ばすことが素敵な人生を過ごす要件であるが、医療は健康寿命にあまり貢献しない。病気になった人が医療に頼ることとなるが、病気が治癒できる範囲で医療を活用すればいい。健康寿命と本来の寿命との間を短くする努力をすることが重要だし、病気になったとしても人生の質を向上させるための医療が求められるのだろう。寿命を伸ばすことが目的ではない。自然の寿命を迎えるまでに最高の人生を終えるようにすることが最終目標である。寿命は自分で勝手に決めてもいいと思う。医者が決めるものでもない。
言いたいことはたくさんあるが、
少なくとも延命のためにたくさんのチューブをつけられて隔離された病室で死ぬことは望んでいない。死ぬなら死んでもいい。安らかに自分の思い通りに死にたいものである。私としては、少なくとも住み慣れた自分の家で、日常と変わらないように死んでいきたい。人工の死ではなく、自然の運命の死を受け入れたい。たとえ孤独死でもいいし、みんなに見守られてでもいい。死んでしまえば、どのようにして死んだかは問題ないはずであるし、残った者を悲しませたくない。みんなで笑って私の死を語りあってもらいたいものである。
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