統一地方選挙が近づいている。
通勤途中の駅で、入り口に立って通勤客一人ひとりに頭を下げて「お願い」している。何故頭を下げなければいけないのか、何を「お願い」しているのか皆目検討もつかない。受ける情報量はキャッチフレーズと名前だけである。公示前なので具体的な選挙運動はできないんだろうけれども、こんなのは意味ないといつも思いながら、申し訳ないが無視して通り過ぎる。私からすれば、公示前に少しでも他の候補者より有利になるようにと思っているその考え方そのものが受け入れられない。これを「誠意」とか「熱意」とか「情熱」と言いたいかもしれないが、「抜け駆け」「小賢しい」「えげつない」と言う感じがする。
第一、市民に対して頭を下げる必要はない。堂々と自分の主張を述べればいい。
選挙に絡め直接関係する具体的な選挙運動はできないが、日頃自分が考えている事、自分はこんな人間だ、こんな能力をもっている、社会にこんな貢献をしてきた、社会に対してこんな問題意識を持っている、こんな理想を抱いている、等と堂々と主張したらいい。少なくとも、その主張で通りすがりの人に関心と興味を持たせ立ち止まらせる何かがなければならない。そんな魅力を武器に公示後の選挙戦を堂々と勝ち抜くのだろう。反対に十分な実力と能力と魅力を持っている人は泰然自若として公示前の運動なんてしなくてもいいはずである。また、こんな顔と名前を売るだけの運動で票が獲得できると思うのは市民に対する侮辱である。市民が顔と名前だけでしか投票していないと思い込んでいる。とりあえず顔と名前さえ知らしめて媚を売ってれば票が稼げると思っている。選挙はそんなものではない。
選挙の公示後も選挙運動は内容が薄い。
保守派は抽象的な万人に平等な夢物語しか言わないし、革新派は社会問題と保守派の政策の不備を追求してこれまた輪をかけた夢物語を語る。もっと、自分が何をしようとしているのかを具体的に語って欲しい。そこの部分が見えてこない。具体的にすればするほど万人共通でなくなり票が取れないと思い込んでいる。政治家はもっと自分の政治に対する信条と自分の立場を明らかにすべきである。これを明確にしないで、当たり障りのない、人情に訴えるだけの人気取りの選挙運動を展開する。そして、最後は名前の連呼と哀願である。騒音を撒き散らしてうるさいだけである。
「私を政界へ送り出してください、そうすれば必ず皆さんのために働きます」と言う。
順番が逆である。「私の政策と政治信条と実力、能力、人柄を信じる人は投票してください」である。政治家と言う権限があって仕事ができるのではなく、市民の賛同を得た仕事があってこれを実行するために権限が与えられるのである。選挙で問われるのは「あなたは何をしようとしているのですか?どの方向に進もうとしてるのですか?」ということであり、当選しても落選してもこれを市民に投げかけ賛否を問うのが選挙である。選挙に勝つために選挙運動をしているわけではないし、票を獲得できるような政治信条を公約に掲げるのが選挙ではない。
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