前に未開の地の人達の数の数え方について書いたことがある。
数字の不思議
一つ、二つ、の次の三つ以上はすべてたくさんで済ましてしまうそうである。私とあなたがいてその周りの者はまとめてたくさんなのである。私が「1」であなたが「2」でそれ以外はたくさんの集団に過ぎないと考えているのだろう。確かに面白い考え方であり、幼い子供たちと会話していると、この数え方を念頭に置くといろんなことが理解できる。
まずは、自分なのである。
自分が中心なのである。これが最初の出発点なのである。自分の存在はしっかりと確保しなければならない。次にあなたなのである。人間は社会的な動物で、他者との関わりを絶って生きることができない。あなたの存在を認めることは、自分の存在を制限することでもある。当然あなたも自分が中心なのであり、私とあなたは一心同体ではないのである。一心同体でないからあなたでもある。
最後にたくさんがある。
たくさんは環境にしか過ぎない。たくさんのものの本当の存在を確かめるには、その一つを取り出して私とあなたの関係になってお互いの存在を確かめ合わなければならないのだろう。私とあなたの「あなた」は特定の対象ではないのである。いろいろな「あなた」と関係しながら人間は生きてきたのである。「あなた」の数は社会性が増すにつれ増大してゆく。それでも「私」と「あなた」の関係を維持すべきなのである。
「たくさん」の人達を認識する時、得体のしれない偶像を描いてはならない。
「たくさん」の人達は、それぞれに個性と多様性を持ったバラバラの集合に過ぎない。人間でいうところの意識や思想や主義・主張を持っているわけではない。我々は勘違いしているのかもしれない。さも一人の人格を持ったものとして「たくさん」と関係している。そしてその人格が何たるかを一生懸命探求しようとしている。そして、誰かが発表した探求の成果を寄せ集めてその人格を理解しようとしている。
一人、二人、たくさんの考え方は、
単純に三つの分類に分かれる。そしてその分類は、私が三分の一、あなたが三分の一、たくさんが三分の一なのだろう。そう考えてみると、現代の世の中は「たくさん」があまりにも多すぎる気がする。そして、「私」が少なすぎる気がする。「あなた」が占める割合は三分の一でもよさそうだが、「あなた」の数は各人の社会性に委ねられているが、数量と範囲はサンプリングのやり方であって、その人の個性に応じたものでもある。
注意しなければならないのは、
この三つの分類が明確でないことである。「自分」から発出したつもりが、「あなた」や「たくさん」であったり、「あなた」のつもりだったのが、「たくさん」であったり、「たくさん」のつもりが、どこかの別の「わたし」や「あなた」だったりである。どこかで意識や思想や主義・主張らしきものを見つけ出したら、是非この三分類に分けて考えてみたらどうだろう。いかがわしい情報に振り回されることがなくなるかもしれない。
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