このブログでもよく「説明責任」という言葉を使う。
日本語でこの頃よく使われるが、歴史が浅いのかあまり意味が浸透しないようだし、意味づけも不十分な気がする。そして、ただの「説明する責任」の意味になっている気がする。本当はそうではないのである。日本語に適当な言葉がないので英語の「アカウンタビリティー」で本来の意味を確認しようと思う。たぶん、英語の「アカウンタビリティー」を日本語に翻訳して「説明責任」と言っているのだと思う。
要は、一方的に説明するだけでは責任を果たしたことにならないのである。
説明したうえで、みんなを納得させなければならないのである。記者会見をして説明の場を設けていくら説明だけをしても意味がない。その内容が理解できて納得できるものでなければならない。良いとか悪いとかは別にして、言ってる内容がなるほどそうだったのかと理解して納得して不明であったことが明らかになり、問題点が明らかになり、その問題点に対してどうしようとしているのかを明らかにする必要があるのである。
アカウンタビリティーとは、経済用語である。
経営者と株主との相互の情報の格差をなくすために経営者が企業の情報を開示する義務のことである。情報の格差が解消できなければアカウンタビリティーの目的は達成できてないし、一方的な説明だけではかえってお互いの情報の格差は広がるばかりである。日本語の「説明責任」はこの視点が抜けていると思う。どの「説明責任」も目的を達成することなく、ただの義務感で儀式と化している。日本人は中身を無視して儀式化するのが大好きなようである。
日本の株主総会がまさにそうである。
すべてとは言わないが、毎年恒例行事のように開催されるが、果たして経営者と株主の情報の格差を解消する目的でなされているのかは疑問である。口では「アカウンタビリティー」と強調しているが、実態は事なかれ主義で済ましてしまおうと思っているようにしか見えない。ただの義務感で儀式的に行うのであれば、無意味でもある。また、経営者はどんな説明をすれば相互の情報格差が埋まって株主を納得させられるかを追求しなければならない。
政治家の会見発表もお粗末なものである。
一方的な発表ばかりであるし、質問を受けても相手を納得させるのでなく、いかにその場を切り抜けるかに必死である。はっきり言って、情報の格差は広がるばかりであり、一方的な発表に心から賛同することはない。その内容をメディアを通して聞く国民はもっと納得できなくて、いつも「しょうがない」「仕方ない」「いつものことだ」と諦めているようでもある。それでも従順に従う日本人は実に優秀?である。
刑事事件の裁判では「疑わしきは罰せず」である。
アカウンタビリティーは結果として疑われるようでは失敗なのである。情報の格差が拡大したことに他ならないし、信用は失墜してしまう。疑われたままで放置してしまうのもさらに最悪である。そんな説明責任ばかりで済ましている人は直ちにその責任ある立場を退かなければならない。説明責任を果たしていないのであり、責任者として失格である。そのくらいの覚悟で「アカウンタビリティー」に徹しなければならないのである。
いくら説明責任を果たしても、誰も納得しないのでは意味がない。
説明責任を果たす人は、どうやって何を説明したら納得してもらえるかに意を尽くさなければならないのだろう。良いことばかりではない、かえって悪いことこそしっかりと説明責任を果たしてもらわなければならない。逃げてはならないのである。悪いことでもしっかりと対処できる人こそ本当の優秀な人なのである。悪いことには目をつむり、なかったことにして、その場から逃げ出す人にろくな人はいない。感銘すべきである。
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