赤の他人が夫婦として共に生活して長くなるが、
この頃お互いの不平不満が多くなっている気がする。それぞれが個性があってその個性がぶつかり合っていると言えば聞こえがいいが、些細な取るに足らないことでギスギスするのも考え物である。どうでもいいことに腹を立てるのも精神衛生上よろしくない。それでも目の前で愚痴られるといい気分ではないし、自分の行いが非難され、無視され拒絶されたりしているのではないかと、見過ごすわけにはいかない心境になってしまう。
そこで、よくよく考えてみたら、
相手は全てのことで私を非難しているわけではないことに気付いた。ほとんどは淡々と事実を述べているだけなのである。その事実に対して自分で邪推して自分が責められていると勘違いしているのである。話は最後まで聞かなければならない。本当に非難しているのであれば、最終的に非難する言葉がどこかにあるはずである。相手から伝えられたただの事実に対して自分で負い目を感じているのか、相手の不満を事前に察知しているのか、あるべき姿を思い浮かべているのか知らないが、とにかく気持ちが不安定になる。
共同生活が長いからその言動の先が見えてしまうのかもしれない。
話の途中でその先を聞こうともしないで、反抗的に行動してしまう。創造的で建設的な会話は途切れて、破壊的な言葉と行動に移行してしまう。その都度反省はしているが、自らの性分なのか短気なのかはわからないが、知らない間にそのような状況に陥っている。まぁ、ほとんどはその場を離れて間合いを取ることにしているが、相手も私と同じように私の不満を感じ取ってしばらくは会話が途切れることになる。
あとは、ほとぼりが冷めるのを待つだけである。
そんなに執着心があるわけではなく、どんなにひどくても一時間もあればきれいさっぱりに忘れている。そういう意味では不満が発散されただけでもいいことではあるが、たぶん、相手は不快に思っているだろう。申し訳ない気もしている。年齢を重ねるごとにこのような場面が多くなっている。何とかしないといけないと思っている。この現象が家の外でも発現するようになったら、周囲にとって大迷惑である。
結局は、相手の話を聞くときに、
基本的にはただ事実を述べているだけだと思うのである。そこに個人の意思も感情も意見も批判もなくて、まずは事実を述べているのである。それを私が勝手に相手の意思や感情や意見や批判として邪推しているだけだと思うことである。時には意見や批判であってもそれをまずは事実としてとらえるのである。「あぁ、あなたはそう考えているんだ」みたいな感じである。そうすると、少なくとも怒りの感情は起こらない。
うまくいけば、相手の非難さえ聞き流すこともできる。
自分の邪推を確信するから自分の中で起こった非難の言葉に怒りが生じるのである。相手がそういう非難をしている事実を確認できれば、怒りの感情ではなく、その非難に対して冷静に反論することができるのである。討論において感情的になった者が負けであるが、どうやらこの感情を抑えきれないお年頃に近づいているようである。大いに反省しなければならない。
メディアの報道を見聞きしていても同じである。
ほとんどは事実を淡々と伝えているだけであるが、聞く側はその先を読んで、問題点なり、不満なり、不信を勝手に重ねて受け取っているようである。まずは、事実をそのまま受け止めて、その事実を良く理解してから次に進むべきであり、無駄で不要な情報はその時点でフィルターをかけて取り除かなければならない。早とちりを無くすためには、再度確認し別の観点から見直すことも重要だろう。
何でもかんでも事実として垂れ流すメディアも問題だが、
その方がまだましかもしれない。これが情報操作され、偏向したのでは受け手は最後まで間違った情報しか受け取れない。取捨選択するのはメディア側でなく受け手の一般大衆なのであり、判断するのも一個人であるべきなのである。誰かの意見を受け売りしてもただの伝言ゲームでは健全な世論は育たないし熟成しない。ところが、どこを見ても受け売り情報ばかりが右から左に流されている。我々は大いに反省しながら事に当たらなければならないようである。
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