物事の一番最初は良いのか悪いのかわからないところから始まる。
ある段階でこれを「悪い」と判断して止めてしまっては、ほんとうに悪いのかがわからないままで終わってしまう。当然周りの人が悪いと勝手に判断を下して強制的に止めさせるのも発展的な思考を阻害するものである。他人に迷惑をかけない限り良くても悪くても自由に扱われるのが基本であり、勝手に決めつけられた物事そのものの善し悪しではなく、他との関係でどの部分が悪いのかを議論し改善しながら良いものを追求して行くのが正しい認識であると思う。
「良いもの」というひとつの基準に合致した集団だけしか存在しない場合、
「良いもの」を判断するモノサシは必要がなくなってしまう。「良いもの」が当たり前でみんなの共通認識であればわざわざモノサシではかることもない。「悪いもの」という比較基準があってはじめて良いことの価値が相対的に理解できる。こう考えると「悪いもの」も必要であり、その存在を認めなければならない。「悪いもの」を一方的な思いこみですべて抹殺してしまうと発展的な思考が停止してしまう。 未熟で未完成なものを「悪いもの」として排除してしまってはせっかくの「良いもの」の芽を摘んでしまっているようなものである。
世の中のものごとは基本的には、
「良いもの」と「悪いもの」と「どっちとも言えないもの」に区分できる。しかしこれはひとつの基準によって判断された結果であり、現在時点における判断に過ぎない。別の基準で見れば「悪いもの」が「良いもの」となることもあり、現時点の「悪いもの」が将来「良いもの」に変わってゆくこともある。ひとつの見方として、またはとりあえず現時点での判断として「良いもの」「悪いもの」の判断はあるがそれは単なるひとつの見方であって永久不変のものとして決めつけられ結論づけられるものではない。
一般的に社会生活において考えてみると、
2割の人は一生懸命働く人、6割の人はやったりやらなかったり適度にやっている人。あとの2割は徹底的に何もしない人という構成比になる(あまりにも断定的であるが、その根拠は働き蟻や働き蜂の生態観測結果に基づいた推測である)。興味深いのは、何もしない人を排除すると、能率が上がるかというと、残念ながら、残った人の中で、2・6・2の法則があらわれ、人数が減った分かえって生産性は低下する。社会から働かない人を間引きしたら、社会が良くなり、みんな頑張るようになるわけではない。
何もしない人が本当に何もしないのかというとそうではない。
何もしない人も別の意味で何かに貢献しているのである。観点を変えるとこの何もしない人が一生懸命働く人に変わるし、いつの日にか一生懸命働く人になることもある。この何もしない人がどうやったら一生懸命働くようになるかを考え改善するところに進歩発展があるし、この何もしない人は予備の燃料タンクみたいな効果があり、いざと言うときに必ず役に立つ。例えば、一生懸命働く人を排除してみると残った人の中で、2・6・2の法則があらわれる。つまり、一生懸命働く人以外のグループから一生懸命働く人が生まれるのである。不測事態が発生したときにもこの何もしないグループはその能力を発揮することになる。
ひとつの考え方があるとそれに対抗する考え方があるのが普通である。
対抗する考え方を認めないと議論にもならないし、考え方を深めることもできない。対抗する考え方を乗り越えて支持を得た方がその時点での結論となるが、このことはどちらが「良いもの」でどちらが「悪いもの」という判断とは直接関係ない。重要なのは、なぜその考えが現時点において最良策であるかという理由であり考え方である。理由も考え方も明らかにしない思いこみの独り善がりの判断は間違いの元であり、ましてやこれをまわりに強制するのは周囲に害悪を及ぼし迷惑そのものである。
未熟で劣って醜くて弱いものを「悪いもの」として存在さえ認めずに、
反対に成熟して優秀で美しく強いものだけを「良いもの」として追求する考え方は「悪いもの」と「どっちとも言えないもの」さえも駆逐してしまう。最初の試行錯誤の段階は未熟で劣って醜くて弱いものなのである。この最初の段階が許されないなら形だけの与えられた「良いもの」を見よう見まねで真似するしかないが、それでは本当の「良いもの」を取り込むことはできない。試行錯誤して最終的に行き着いたところが「良いもの」であり、一人一人の「良いもの」は同じものではなく、それぞれに異なっていてもいいのであり、またそうであるべきであると思う。
「気心の知れた親しい人」とは、普通は自分と同質の人であり、
常にこの人達だけで世界を閉じてしまうと、定常状態のままに落ち着いてしまい進歩発展することはない。進歩発展を目指すなら、この世界を飛び出して、「良いもの」は当然のこと「悪いもの」「どっちとも言えないもの」も含めて積極的に接してゆかなければならない。「悪いもの」「どっちとも言えないもの」にも進歩発展に必要な要素とエネルギーを持っている。「良いもの」を積極的に目指すのであればなおかつ自分とは別の観点からの教訓とノウハウを得ることができる。
「人類みな兄弟」「世界は家族」というけれども、
現実の人類や世界は「兄弟」や「家族」とは程遠い全くのバラバラなものであるから少しは「兄弟」や「家族」のように考えるように努力しましょうというのが本質ではないか。本当に人類や世界が「兄弟」や「家族」になってしまったら反対に凄惨な骨肉の恨み辛みの関係が現出してしまうと思う。兄弟や家族はやはり本来の兄弟や家族の規模にとどめておくのが賢明である。人類や世界は基本的にはバラバラの赤の他人の関係のほうが良好な関係を維持することができるではないかと思う。ただ、そのためには「バラバラの赤の他人」である前提を忘れないことと、「バラバラの赤の他人」を理解しようとする努力を忘れないことである。
人種問題や民族問題や宗教問題は奥が深い、
単なる表面的な問題だけではない。ずうっと昔からの相互の関係に根ざしたものである。「バラバラの赤の他人」の関係であればこのような凄惨な骨肉の恨み辛みの争いはない。この問題を解決するのは当事者同士による話し合いしかないと思う。ここに第3者が介在すると問題がますます複雑化する。武力での解決も意味がない。当事者同士の話し合いにより誤解を解き妥協点をは見出してゆくしかないと思う。
日本で社会的に問題となっている「イジメ」は、
「悪いもの」の存在を認めず排除しようとするところに原因がある。ひどい場合は「「どっちとも言えないもの」までも排除して「良いもの」しか認めないようなゆがんだ価値観がまかり通っている。しかも「良いもの」はお仕着せのものであり、一方的な判断基準で有無も言わさず決めつけられたものであり、この基準に合わないものは排除してしまおうという暴挙である。このような考え方には進歩発展は期待できないし、金太郎飴の大量生産を繰り返すだけである。
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