盛者は必ず衰えるのは世の常らしい。
よって盛者はいつかは衰えることを覚悟しておかなければならない。いつまでも最盛期が維持できると思うのは大きな間違いである。盛者がいつまでも世に蔓延っている事は周囲の者の大迷惑でもある。いつまでたっても次の者にバトンタッチできない。後生の者に受け継いでゆくことが世の中の慣わしであるし自然界の原理・原則でもある。このことをようく理解しておくことが重要である。そして、引き際を見極めることもきわめて重要である。いつまでも過去の栄華にしがみついているのは見っとも無いし、栄華にしがみつかなくても十分に自分のやりたいことはいつでもどこでも実現可能であるし、かえって栄華にしがみつかない自由さの中にこそ本当の求めるものが見つかると思う。
強者は環境に適応して生き残った者ではあるが、
現在の環境に最大に適応している者であって、現在の環境が変わってしまえばたちまち衰退してしまう。衰退しないためには、次の環境に新たに適応しなければならないが、全精力を注ぎ込んで最適に適応した者は確かに現時点で最強であるが、次の環境に適応する余力を残していない。よって、一時期ではあるが、次の者に最強の地位を譲らなければならない。この最強の地位を譲ることは決して恥ずかしいことではないし、きわめて日常的なありふれたことなのである。常に最強の位置を保って最強の地位に固執することは反対に異常なことなのである。トップの座は誰でも取れるものではなく、いずれかは譲り渡さなければならない。トップの座の獲得には壮絶な努力を必要とし、その壮絶な努力がいつまでも維持できると思うことは大いなる勘違いである。
それでは、本当の強者は誰なのか、
余力を残して常にトップの座を目指している人である。時にはトップの座を獲得できる場合もあるが、それは環境の良し悪しによって決まる。自分にあった環境がそろえば大いなる実力を発揮できてトップの座につくこともできるが、通常はトップの座に執着するのではなく、環境が変わっても生き残るための対策が取れる余力を残しておくことが真の強者である。環境が変わった途端に瞬く間に絶滅してしまう強者は真の強者ではない。そして、環境が急変した時に本当の実力を発揮するのは後続の大集団であることを認識すべきである。そして、日頃からも後続の大集団の実力と評価を常に認識している必要があると思う。後続の集団も最下位の集団も十分に存在価値があり、イザと言うときは大いなる実力を発揮するんだと言うことを感銘すべきである。
トップの座についている側から考えてみると、
常にトップの座を維持したいのが人情だろう。しかし、トップの座を維持するために自分を殺して環境に適応し続けることは本来の真価を発揮することはない。本来の実力は、生来のものであり、そこに自分の個性が生まれる。その個性を生かすことが重要であって、個性を殺して無理に環境に適応することは個性を歪曲させ没個性の道を突っ走ることとなる。自分の信念に基づいて行動し、環境が我に有利であれば、他を制してトップの座に立てるが、環境の善し悪しは時の運であるし、時の運に任せるのが自然の理である。反対を言うと、トップの座に立てるのは自分の実力でもあるが、最終的には時の運であるし、これを作為することは自然の摂理を壊す行為でもある。変な工作はしないで自然の理に任せればいいではないか・・・。何をそんなに誤魔化そうとしているのか。結果には素直に従って何の問題があるのだろうか・・・。
環境に適応することに熱心になっている人は、
自分の個性を犠牲にしている。そんな人をトップの座につけておくことは許されない。後続の人達の中にはもっと自分の個性に合った実力を十分に発揮できるグループがたくさんいて、しかもこれらの人達を競争させればもっとふさわしい人達が頭角を現すはずである。当然のことながら、こんな競争が常に行われている環境が本来の自然の姿である。「盛者必滅」で「諸行無常」であるのが世の常である。常にトップの座を目指して虎視眈々とたくさんの後続集団が自分の個性に適した環境が実現することを狙っているのであるし、その後続集団の広がりが広大であればあるほどこの世が滅亡することはない。よってこの後続集団こそ世の中を滅亡させない真の強者軍団であると思う。馬鹿な近視眼的な見方しかできない人達は、この人達を「落ちこぼれ」呼ばわりするが、これはどうしようもないほどの勘違いだと思うし、世の中の理、自然界の摂理を無視した言動だと思うがどうだろうか・・・。
沙羅双樹の花の色、裏権力必衰の理を顕す。
おごれる小沢も久しからず、政権交代に酔った真夏の夢の如し。
猛き者も、遂には亡びぬ。