周囲の人との諍いが絶えないが、その原因は些細なことである。
他人は他人であり、自分の思い通りにはならないという事をまず肝に銘じなければならない。諍いを少なくするためには謙虚であることが重要である。何でもかんでも周囲に対して自己主張する人、自己中心的な人、周囲への思いやりに欠けている人などは常に諍いが絶えないことになる。しかもその原因はほんのちっぽけなどうでもいいことである。結局はどうでもいい細かいことまで自己主張するので、その主張が通らないと腹を立てることになる。そこには謙虚さが必要である。
周囲の人にお願いする時、
自分の思い通りになるとは思わないことであり、やってくれなくて当然、少しでもやってくれたら大いに感謝である。そういう考え方であれば、お願いの仕方も変わってくる。「ああしてくれ」「こうしてくれ」と直接的に指図するのでなく、自分の希望を相手に伝えて、少なくともやり方は相手に任せるべきで、やった結果についても「できる限り」で十分である。通常は直接的に指図するよりももっと自分の希望に沿った積極的な成果を提供してくれるのがほとんどである。相手を追い込み自分も追い込むギスギスしたお願いの仕方は結局はお互いの不満と期待はずれの成果しか残らない。相手は使いっ走りでもなく、奴隷や手下でもなく、金で雇われた作業員でもないのである。
コンピュータ社会になって突然キレル人が多くなったような気がする。
自分の思い通りにならないと些細なことで突然キレてしまう。要求すれば全てやってもらえると勘違いしている。そして要求した事実を突きつけて「何でやらなかったんだ、他の人はやってくれる」と批難する。基本的にはやろうとやるまいと個人の勝手で、要求した側はやってもらえなかったら次の方法を考えなければならないのである。そこまで根気よく付き合う覚悟ができていることがすなわち相手のことを思いやり尊重している証でもある。ちょっと気分を害するとそれまでの関係を直ちに断ち切って次の人に移ってゆくのは人を人として扱っていないし、その人は精神的に病んでいると思う。しかしながら、堂々とそんな付き合い方がまかり通っている。コンピュータ・ネットワーク社会で個人対不特定多数の付き合い方が可能になったからだろう。
謙虚な気持ちは相手に思いやりの心を伝える。
お願いする内容にも相手に逃げ場を与えている。相手が希望に添えなかった時にも相手が傷つくことがないように配慮された言い方になっている。これを直裁的に断言してしまうとお願いしたほうもお願いされたほうも逃げ場がなくお互いに気まずい状況になる場合がある。また、謙虚な気持ちはおおらかさの現れでもある。切羽詰った状況を避けて、余裕を持って付き合っている。だから、相手が自分の思い通りにならなくても腹を立てることはない。当然ながらその時の対案もしっかりと考えてある。こんな態度で周囲の人と付き合いたいものである。
理想は理想として、首都圏の通勤時のラッシュアワーを想像するとゾッとする。
謙虚な気持ちなんてあったものでない。通勤地獄であり戦争である。結局はこんな環境がへんてこな人間を作り出すのだろう。我先に自分のことしか考えない者が生き残る世界である。たぶん、謙虚な気持ちを持っていたらいつまで経っても電車には乗れないであろう。謙虚さを無視する訓練を毎日やっていたら、謙虚さなんてどこかへ全て蒸発してしまうだろう。悲しいことであるし、何とかしなければならない重大なことであるが誰も改善できないでいる。
善良な一市民としてはこんな世界に近寄らないことだろうと思う。
交通戦争も受験戦争も就職戦争もできれば近寄りたくない。平和日本にも「戦争」が存在する。戦争するためには開戦宣言があり、当事国は国交断絶し、戦時国際法や戦争法規が適用され、休戦・講和を経て終結する。電車に乗った時が開戦宣言で電車を降りたら終結宣言でこれを毎日繰り返しているのだろうか・・・。戦争は一時的なものであるが、現代日本のように戦争状態の心理を継続的に持ち続けているのは精神衛生上よろしくないし害を及ぼすばかりである。
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