オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

マルチメディアの落とし穴

2007年07月30日 | Weblog


世の中どこを見てもマルチメディア全盛である。

 当初はマルチメディアは情報伝達手段の多様化(電話、FAX、文書、テレビ、ラジオ、データ通信等)のことであったが、この頃は音声、文字、画像、映像を駆使して複合し一元化した世界を「マルチメディア」と言うようになった。ひと頃は通信手段の多様化(音波、電話線、同軸ケーブル、光ケーブル、無線、衛星通信等)をマルチメディアと言っていたこともある。いずれにしても「マルチメディア」は手段の多様化の意味であり、正確な用語の定義はない。

「マルチメディア」は便利であるが、反面落とし穴もある。

 例えば、人間の意思を表明するのは少なくとも画像や映像ではない。直接は音声である。あとはその時の表情やジェスチャーである。しかも一連の流れの中でもしくはあるひとつのまとまった時間空間の中で表明される。しかし、最も大事なものが「音声」であることに変わりない。表情やジェスチャーは意思の表明を理解するための参考でしかない。ということは、人間の意思の表明において最も大事なものは「音声」であり、画像や映像は付け足しに過ぎない。しかも音声は「言葉」であり、この言葉はひとかたまりの文章になってはじめて意味がある。これを編集することは本来の意志が正確に伝達されない可能性がある。

「肉声」は録音しない限り、その場で消えてゆく。

 通常の会話は証拠としては残らない。昔は録音の技術がなかったので、口伝や書き写しで「肉声」を記憶し記録し残した。とはいえ、この残されたものは決して日常のくだらない会話内容ではない。推敲され尽くした立派な内容である。現代は技術が発達し録音が容易にできるようになったが、肉声を記録として残すのであれば事前に準備し言葉を慎重に選んで発言しなければならない。それを突然にマイクを突きつけて質問責めにし「何か答えろ」と強要するのは本質としては間違っていると思う。咄嗟の言葉の中に事実があると思っているかも知れないが、それは自分の日常生活に振り返ってみればすべて正しいとは言えないことが解るはずである。

「肉声」は不用意に発せられたものもある。

 頭に浮かんだものを咄嗟に不用心に発する場合もある。この「肉声」を事実として取り上げ、真実として報道するのはそれこそ事実を歪曲し真実を伝えていない。少なくとも「肉声」を発した本人が同意しない内容は「真実」ではない。ただし、公式発表は別である。これは本人が発表する内容について十分に準備し推敲されたものであり、これを本人が否定することはできないし、本人も公式発表した内容にはしっかりと責任を取らなければならない。責任の持てない公式発表は意味がない。こう考えると、べらべらと不用意な言葉を並べたてている記者会見の場面をテレビで見せつけられると、しゃべる人も聞く人も何を考えてやっているのか首を傾げてしまう(当然チャネルを変える)。

その点、文字は言葉より真実味がある。

 少なくとも本人が書き記した文字は言葉よりもっと推敲されたものである。おびただしい多弁よりもひとかたまりの文章の方が多くを語る場合もある。人間の意志を表明する手段の最も有効な手段は文字(文章)ではなかろうか。その証拠として、憲法も法律も宗教の教典も規則も契約書も遺言もどういうわけかすべてが文字で書き記されている。憲法を絵画で表現したとか、契約書をポンチ絵で表現したとか聞いたことがない。これは画像や映像は反対に曖昧さが多くなることを意味している。情報は冗長度が高くなればなるほど曖昧さも増大する。

画像や映像を見ると解ったつもりになる。

 しかし、それは解ったつもりになっているだけで、本当に伝えたいこととは異なっている場合がほとんどである。各人毎に見方や解釈の仕方は異なるのが画像や映像の特性でもある。抽象的な内容を伝える場合に画像や映像は有効であるが、抽象的とは表現する主体が確定できないものであり、主体そのものを正確に伝えているわけではない。何となく理解させようとするとき画像や映像を駆使することになる。そう考えると、あまりにも画像や映像だけに頼りすぎるのは危険でもある。あくまでも補助的な参考情報にしか過ぎないと思った方がいい。そして本当に伝えたいことは数行の文章で表現される。しかもその文章さえも冗長度をゼロにはできない(曖昧さを排除できない)のである。

音声や画像や映像は録音や録画した人が勝手に撮ったものであり、

 撮られた人にとってはどのように撮られたのか知る由もない。その内容をもって本人の意思の表明と一方的に思われても困ってしまう。そしてこれが勝手に編集されたものであっては、登場するのは確かに本人ではあるが、伝えようとする意志は全く別のものになってしまう可能性がある。本当の意思の表明は、本人署名の公式文書であり、本人の直接行う公式発表であると思う。そこにはマスコミにとっては面白味も何にもないかも知れないが、それが主要な本人の意思表明である。その意思表明はさておいてそれとは別の「本音」を聞き出すことばかりに精力を集中している態度は何か奇異に感じてしまう。

正式に表明された本人の意思に対する反証データは「本人」にはない。

 本人を取り巻く環境の中にある。本人がしっかりとした反証データを持っているということは正式表明の内容が嘘であることになる。本人につきまといいくら問いつめても無理な話である。これは本人の意思の正式表明を頭から信用していないことを前提として取材していることだし、「嘘」を表明していることを本人から聞き出そうとしているし、いろんな表明を集めて矛盾点を追求し困らせようとしている。これが何になるのだろう。「嘘」だと思うなら自分で証明すればいいし、その反証データを自ら探して収集・整理・分析し、自らの意見として民衆に主張してゆくのがマスコミの役目であり、その努力をすべきであると思う。

音、画像、映像を駆使した「マルチメディア」はバーチャルな世界を作り出す。

 少なくとも人間の頭の中で考えることは音や画像や映像で具体的に表現することはできない。芸術的な表現は音や画像や映像で表現せざるを得ないが、それは抽象的な概念を表現する手段として利用するのであって、具体的な個々の考えを表現するものではない。しかも音、画像、映像を駆使した「マルチメディア」は如何様にでも編集可能である。よって、現実世界とは異なるバーチャルな世界を作り上げることも可能である。

編集された「マルチメディア」は真実を語らない。

 一連の場面の一部分を切り取って見せたり、一瞬の「アホ面」や「トチリ」をとらえて繰り返し見せたり、時間も空間もごっちゃごちゃにしてつなぎ合わせて見せたり、単なるイメージ映像を思わせぶりにつなぎ合わせて見せたり、などなどである。ジョークやパロディーとして許せる部分もあるにはあるが、これを悪用してはならないと思う。テレビを見ていると、無神経にこれらの手法を悪用しているものがあちこちで見られる。何も考えないで何となく受け入れてしまうと、とんでもない誤解を生む。これらが伝達しようとする内容を文章にすると、「こいつはバカ」「これはウソ」「支離滅裂」「メチャクチャ」「憎たらしい」「忌々しい」等というようなことになる。こんな短絡した感覚的な表現が許されていいわけがない。


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