オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

2025年令和7年の幕開けに思う

2025年01月03日 | Weblog

小さな幸福に感謝する毎日。

 毎日が絶頂の幸福に包まれる状態が真の幸福ではない。人間は幸福を常に消費する存在でもある。そしてもっと素晴らしい幸福を求めて常に次を切望することになる。ところが、幸福は周囲から与えられるものであり、常に与えられるものではない。幸福を手に入れるためには、自分の内面の充実を図る必要がある。外に向かって幸福を追求することは、内面の充実を疎かにしていることでもあるし、すでに今ある幸福を当たり前のものとして実感することができなくなっている。

これがないと生きていけないという思い込みは不幸でもある。

 常に新しい幸福に依存していることでもあるし、この状態では真の幸福を手に入れることはできない。幸福とは快楽とは異なる。快楽に際限はないし、どこまでも追い求めることは不毛でもある。ささやかな幸福にささやかな快楽がある。この幸福を十分に実感することが重要なのであろう。もっと言うと、不幸な状態があって幸福のありがたさがわかるのだと思う。浮き沈みがあるのが普通なのであり、不幸な状態から幸福を目指すところに真の意義があると思う。

幸福を感じる絶頂の状態はほんの一瞬である。

 その絶頂を手に入れるためには、コツコツと積み上げた過去の努力がある。それなしに架空の幸福を手にしようとしても、それはただの快楽に過ぎないし、充実感も達成感もない。そして次々に新たな快楽を求めて、快楽の奴隷になってしまう。快楽なしには生きてゆけなくなる。本来はそんな快楽は必要ないのであり、その不要なものがなくてはならないものになってしまっているのは不幸でもあり、早い時期に抜け出す必要がある。

思い込みは自由を束縛する。

 思い込みのない自然な中立の状態が自由でもあるし、尊い自由を謳歌できる状態でもある。思い込みを捨てることが重要である。仏教でいうところの煩悩であるが、この煩悩を無くすと人生は無駄な努力をせずに明るい毎日が待っている。迷路に入り込んで苦悩するよりも迷路そのものをなかったことにすれば気楽である。お天道様のもとに広い行先のはっきりした道を歩めばいいのである。どの道を選んでも人生の行きつくところは一緒なのである。

感情は一時的なものである。

 それを乗り越えれば平静な状態を保つことができる。平静な状態では降りかかる運命を冷静に受け止めることができる。平静でないと訪れた運命を取り逃がしてしまう。運命は幸福でもあり不幸でもあるが、これに適正に対処することが重要なのだろう。この運命を取り逃してしまう人にはいつまで経っても真の幸福を手に入れることはできない。不幸な運命には試練と思って誠実に向き合うのである。誠実とは、自分の知恵と試行錯誤で美徳を貫くことでもある。こんなことを新年に当たって考えたので記しておく。

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