オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

不特定多数の人達への対応要領

2012年09月12日 | Weblog

ネット社会になって不特定多数を相手にすることが多くなった。

 特定の人達に情報発信するのと不特定多数に情報発信するのとでは根本から対応要領が違ってくる。特定の人達とはある共通項で括られる人達であり、その意味では程度の差はあれ、ひとつの考え方を持った集団と言える。その考え方を基に反対意見なり賛成意見を述べれば関心を持って反応してもらえる。ところが不特定多数は徹底した多様性の塊であり、その考えを特定することもできない。考え方は不特定多数側にあり、情報発信する側にはない。不特定多数に対する情報発信は基本的には事実のみで、発信者の主張は必要ない(というか、主張すると反発が多くなりみんなの関心や同意や反応を独占することはできない)。

本当に不特定多数を相手にしなければいけないんだろうか・・・。

 情報発信は不特定多数に対してであっても、全員の関心や同意や反応を期待する必要はない。不特定多数に対して自分の主張に同意してくれる人に向かって情報発信すればいいのである。より多くの関心と同意と反応が得られれば自分の主張が支持されている証なのである。世の中を見渡すと、順序が逆なような気がする。世の中の関心と同意と反応を気にしながら自分の意見なり主張を作り上げている。そこには一貫した考え方なり意見なり主張は消滅する。断片的な結果としての統計的な事実の羅列に過ぎない。世の中の関心と同意と反応を作り上げるのはまずは意見を主張する側であり、決して降って沸いたようなアンケート結果ではない。

今の日本の社会はあまりにも「不特定多数」を気にしすぎである。

 「不特定多数」は多様性の塊であり意見も主張も存在しない。意見も主張もないものに対して数値的な統計をとっても意味がない。よく政治家は「民意を大切にする」と言うが、「民意」とは何だろう。「意」があるのなら不特定多数の集団の一部であろう。どの集団の「意」を汲むのかが重要であって、何にも主張することなく、現在の状況を分析した結果をもって「民意」と言ってごまかすのはとんでもない間違いである。ある主張に対して民意を問うのが本来のあり方であり、賛成も反対も当然あっていいのである。あるのが当然であり、そこから議論が始まってあるべき姿に収束してゆくのである。あくまで「民意」をリードしてゆくのは日本国のリーダーなのである。

ビッグデータという新しい概念が生まれつつある。

 社会的な現象を分析するために、あらゆるデータをコンピュータ処理して分析した結果を状況判断・決心に活用しようと言う風潮だが、考えてみると、現状分析とは言え、結果が出た時はすでに過去のデータであり、取得したデータはあくまで過去のものである。そう考えると近視眼的な状況判断・決心には少しは役に立つが、長期的な状況判断・決心には役に立たない。少なくとも過去の推移から将来を予測する感覚を持たないと意味がないし、将来に対する状況判断・決心の主体は自らの意思に外ならない。分析結果を基に自分が何をしようかということが主体なのである。この自分の意思がない限り意味を成さない。いくらビッグデータを駆使しても現状の理解だけしか得られない。

不特定多数を対象としたビッグデータを活用しても、

 最終的な結論を得ることはできない。この不特定多数のうち、どの集団を対象とするのかを明確にするのが状況判断・決心の主体である。この該当集団を自分の主張なり意見でリードし関心と同意と反応を獲得してゆくのである。どの集団を取り込むのかが重要であって、不特定多数を相手にするのが最終目的ではない。関心と同意と反応をしない人に対しては対象からはずせばいいのである。特に政治家の人に多いが、常に不特定多数を相手にする人がいる。その人の主張は具体的には中身がほとんどないに等しい。確かに多数の票を獲得できるかもしれないが、これはどう考えてもごまかしの八方美人の人気取りに過ぎない。有権者としては決して騙されないように用心しなければならない。


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