オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

ハングリー精神について

2009年03月20日 | Weblog

あちこちで「この頃の人はハングリー精神がない」という声があがる。

 当然言う側はハングリーな時代を生き抜いた人達であり、言われるのはハングリーな時代を経験していない人達である。しかし、ハングリー精神は最初の大志を抱いたときのきっかけにしか過ぎなくて、「ハングリー」が全く解消されればハングリー精神も失われていく。ハングリーな時代を生き抜いた人がいまだにハングリー精神を持ち続けているとは思えない。また、ハングリーは環境によって生まれたもので、豊かな環境の中であえてハングリーになりなさいと言うのもおかしな話である。また、食べるために生死を賭けて挑戦するというハングリー精神は単純でわかりやすいが、反面奥行きを感じないし、目的達成のためには手段をも選ばないと言う修羅場を生み出す危険性も秘めている。

食欲に始まって、金、地位、名誉、実力等への執着は時代遅れかもしれない。

 今話題にしなければならないことは「精神的な飢餓」であると思う。物が豊かになって昔の「ハングリー」が解消されると、昔の「ハングリー」の状態では満足できていた精神的な部分が飢餓状態に陥ることになる。物理的な「ハングリー」が解消されることにより精神的な飢餓が目を覚ましたのかも知れない。本来昔の「ハングリー」な状態においても本当は精神も飢餓状態にあったのではないか。ただ、物理的な「ハングリー」を解消するために全精力を集中していたので精神の飢餓は思考の外にあったのではないかと思う。

精神の飢餓は恐ろしい。

 精神の飢餓を満たすためには何でもする。「ハングリー」なんて目ではない。例えば悠久の精神状態(悟り)を求めて断食をし苦行をする。精神の飢餓を満たすためであれば「死」をも辞さない過激さである。空腹を満たすために、生きるために何て言う「ハングリー精神」なんて足元にも及ばない。反対に、精神の飢餓を満たすためには「空腹を満たす」とか「生きる」ことさえも雑念でしかない。それらの雑念を超越した永遠の真理を追究しているのであり、人間を超越した神憑りでもある。

この「精神の飢餓」は上手にコントロールしないととんでもないことになる。

 自分で「精神の飢餓」に気づかないで物事を為すとき、とんでもない行為を平気で実行する。いや、昔の「ハングリー」しか理解できない人には想像もつかない行為を平気で実行する。例えば身近なところでは「フリーター」という職業である。精神の自由を獲得するためには貧困でも地位も名誉も将来性もなくてもいいのである。例えば「オウム真理教」であり「法の華」であり「ライフスペース」である。精神の飢餓に悩む者を食い物にしているわけであるが、反面、精神の飢餓に苦しむ者の増大をも示している。昔の「ハングリー」から出発した人にはなにがしかの目に見える成果と実績が残るが、精神の飢餓を出発点とする人には何の成果も実績も残らない。たとえあったにしても目には見えないし、成果と実績を残すことに執着すること自体に意義を感じないし、その執着そのものが「悪」と位置づけられる。

本来、肉体と精神は表裏一体のものである。

 「健全な精神は健全な肉体に宿る」というから、まずは肉体があっての精神であろうと思う。豊かで何でもかんでも手に入る環境では肉体の苦痛を感じる機会が少なくなり、肉体の有難味を忘れた精神の一人歩きが始まるのではないかと思う。精神だけが一人歩きしている状況で、ふと死を直前にし死の恐怖にさらされ肉体の苦痛に苛まれると頭でっかちの精神はもろくも崩れ去ってしまうことになる。あくまでも肉体の存在を前提条件にした精神のあり方であるべきである。肉体の存在を前提条件とした生き方における死は終焉に過ぎないが、精神の一人歩きにおける死は超越すべきものもしくは無視すべきものでありそうだ。

豊かで余裕があって何不自由なく甘やかされた状況において精神の一人歩きが始まる。

 人間は外部からのある程度のストレスを受けた状態で正常に機能するようである。このストレスがなくなり解放されるとバランスを崩して予期せぬ方向へ走ってしまう。押さえつけるものがあって反発する力が生まれるが、押さえつけるものがなくなると反発する力も生まれず、精神は雲散霧消して自由空間に発散してしまうし、そこには秩序も形も存在しなくなる。これが「自由」だ「解放」だと言えばそうかも知れないが、存在意義そのものが失われてしまう。ストレスは悪者扱いされるが、全てのストレスが取り去られた世界は無に近い静寂の世界でもあり、発想も動機も行動も反応もない無気力の世界でもある。

精神の一人歩きを阻止するためには、

 肉体の存在を自覚しなければならない。人間の外部からのストレスの最たるものは自分の「肉体」であり、肉体を存在させ維持するために相当な努力を強いられる。その存在そのものに有難味を感じない人に健全な精神は望めない。あくまで人間は大地にしっかり立って天空を見上げる者であり、天空から見下ろす者ではない。天空には確かに理想郷があるかも知れないが、大地に立ってはるか遠くから見上げる事しかできない。その人間が大地に立っているにもかかわらず、天空から下を見下ろすつもりで下を見ても何も見つけられない。「こうすれば理想郷が見つけられる」と言われれば気休めにはなるが、これは「ウソ」であり、たとえ見つけたにしてもそれは「贋物」である。

二番目のストレスは「他人」である。

 「他人」の存在を自覚しなければならない。他人と自分の関係は「平等」である。自分が主張し他人に影響を及ぼすつもりであれば、他人の主張を受け入れ自分の行動が制限されるのも仕方ない。自分の存在そのものが他人の存在空間を犯しており、自分では他人に何も影響を与えていないつもりであってもすでに影響を与えているのである。しかもこの自分の存在を維持していこうとする(生きる)意志があればもっともっと他人に影響を及ぼすことになる。当然他人からの影響も受け入れざるを得ない。世界が広がれば広がるほど他人は無限大数に近づき、その圧力はひしひしと自分に押し迫ってくる。それを押し返すのが「自分」であり、ただの存在だけでは押しつぶされてしまう。その押し返し方によって自分が形作られて行き、人格や個性が生み出されてゆくと思う。

三番目のストレスは環境である。

 気候であり、生活空間であり、衣・食・住であり、過去から未来へ通じる時間空間である。不思議なことに、全くストレスのない環境において文明は育たない。反対に徹底した劣悪のストレスの環境でも文明は育たない。例えば南国のパラダイスは決して文明の発祥地ではないし、北極や南極、エレベストの頂上が文明の発祥地でもない。ほどほどの環境のストレスがある地域で文明が発達している。と言うことは、環境においてもほどほどのストレスが精神の飢餓を救うために必要であることがわかる。気候が生活空間が衣・食・住が精神そのものではないが、精神を形作る一要素とは言えそうである。これが歴史であり伝統であり民族であり風土であり風習である。文化そのものと言ってもいい。

精神の一人歩きが始まると、

 まず、自己否定が始まる。次に他人の無視が始まる。そして文化そのものの破壊が始まる。そして自分だけの精神が高揚している。高揚しているだけであって理想に近づいているわけでは決してない。これを宗教上の修行として行う場合は、世間から隔離して通過段階として行われ修行を終えた後の人生があるが、単なる精神の一人歩きは目的地も経路もいつ終わるとも終わった後の人生もないし、最悪の場合は周囲を巻き込んで大迷惑を及ぼすことになる。本人にとっては全てを否定する苦行であろうが、その行き先には何が待ち受けているのか皆目見当もつかない。たぶん何もないと思うし、何かが起こる奇蹟を期待しても仕方ないと思う。奇蹟は全てを否定するような苦行をしなくとも起こるときには起こるのである。

精神の一人歩きはあちこちに見られる。

 程度の差こそあれ、あちこちで精神の一人歩きを主張している。一般的な言い方をすれば、傍若無人であり、自分勝手であり、独り善がりであり、自虐的な現実否定であり、理想を捨てた逃避であり、捨て身の責任回避であり、徹底した依存体質である。現代はそれで済まされると言う「甘え」が許される環境にあるようである。そのために「自分」というものを形作ることができなくなっている人達が巷に溢れている。そのような人はいたずらに刺激を求めたがる。過激な刺激を受けることによって自分の存在感を確認する。過激な刺激の中に自分の身を置くことによって「生きている」という実感を感じ取っているようである。しかし、この刺激は外部からの他律的なものであり自らの意志による自律的なものではない。



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