オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「同調」と「個性」

2009年03月28日 | Weblog


心理学用語で「同調」と言う言葉があるそうだ。

 AとBの結論があって、10人中9人がAの結論を出しているとすると、最後の1人はたとえ自分はBだと思ってもAを選択する確率が高いそうである。このような現象を「同調」と言う。これは社会的な動物である人間に特に見られる現象で、もしかしたら猿やチンパンジーにも見られるかも知れない。そう言えば集団で行動するほ乳類や鳥類や魚類は一匹の動作をきっかけに集団が一斉に一糸乱れず行動するという芸当を見せてくれる。これも同調であろう。どうやら集団で生活する動物にとって「同調」は生きるために欠かせない生活の知恵らしい。

しかし、「同調」は対応の暇のない咄嗟の心理に過ぎない。

 この「同調」だけをもって最終的な判断にしてしまうのは間違いのもとである。咄嗟の場合に取り敢えず「同調」しておくだけで、どちらかというとまだ何も考えていないということである。自分の考えがあってそれに従うなら同調ではない。よって日頃から何も考えていない人が「同調」しやすく、この「同調」によって得た結論をいつまでも引きずることになる。引き続き自分で考えることを止めている場合は次の「同調」の機会が訪れるまでその状態を維持する。まるで非安定マルチバイブレータ回路みたいな動作をし、次の信号が来るまでは安定状態のままである。信号を出しているのが誰だかわからないし知ろうともしない。信号を出す側は自分の都合で勝手にしかも頻繁に信号を出す。信号を受ける側は自分が操られているのさえ認識していないようである。

どうでも良いことは「同調」でもいい。

 かえって何もかも真剣に考えていたのでは頭はいくらあっても足りないし、肝心の重要なものがどれかを見失ってしまう。「同調」は便利なもので、そこそこの結論を出してくれる。どうでも良いことは「同調」に任せていてもいいのである。しかし、肝心な重要なものはじっくりと時間をかけ全精力をつぎ込んで「自分で考える」必要がある。どちらかというと、このためにどうでも良いことを「同調」で片づけていると言ってもいい。ところが、世の中には「同調」だけで生きている人がいる。もしそんな人がいたなら、それは怠惰以外の何者でもない。「何のために生きているのか」と言う目的そのものがすっぽりと抜けている。ただ生きているだけである。

「同調」も社会生活にとっては重要な要素である。

 ほとんど8割方が「同調」かも知れない。この「同調」がなければ、社会生活はギスギスしたものになる。本当に自然はよく考えられたものだと感心する。しかし、あとの2割は「同調」であってはならない。じっくりと時間をかけ全精力をつぎ込んで「自分で考える」必要がある。この積み重ねが「個性」や「人格」を創り出すと思う。全て「同調」である人は怠惰そのものである。反対に全て「個性」である人も人格的にはおかしい。8割の部分で他の人と同調できないのでは円満な社会生活が送れない欠陥人間になるし、それでも生きようとすれば一人っきりにでもならない限り頭を酷使しすぎて早死にしてしまう。

「同調」を基本(8割)としても、2割は「個性」であるという言い方をしたが、

 これは一例であって、割合は個人個人によって変わるし、判断する事項によっても変わる。全て「同調」であってもいい事項もあるし、全て「個性」であってもいい事項もある。いずれにしても全て「同調」であったり全て「個性」であることは目指すべき目標ではなさそうである。全て「同調」であるものも全て「個性」であるものもいずれかの時期には自分でよく考え直さなければならない。そこには思いもかけない宝物や落とし穴があるかも知れない。人生観と言われるものは日常の些細なところに転がっているものである。

こんなことを考えて世の中を見渡してみると、

 「同調」だけで「個性」が感じられないものが氾濫している。反対に「同調」しないことが「個性」だと思っている人もいる。「同調」しないこととは、「同調」を反転しただけで「同調」に同期していることに変わりはない。やはり外部からの信号に操られているのである。「個性」は「同調」を基本に成り立っている。しかし「個性」の部分は少なくとも外部に惑わされることなく自分で考え自分で作り上げたオリジナルなしかも優秀ですばらしいものでなければならない。それ以外は「同調」であっても何も問題ない。そこではじめて「個性」が輝くのである。他人との差別化するだけの「同調の否定」は個性でも何でもない。下手をすると自分が孤立化し異端化しているだけで本来の価値を見出すことはない。

民主主義の考え方も同じだと思う。

 「全て同調」であっても問題だし、「全て個性」であっても問題である。日本人は単一民族の島国国家であるためか、どちらかと言うと「全て同調」に近いのではないかと思う。そのために正常な民主主義が維持できないでいる。多民族の大陸国家では、どちらかと言うと「全て個性」に近いのではないかと思う。「全て個性」を統合するためには多大のエネルギーを必要とするしエネルギーが不足するとバラバラになってしまう。そう言う意味では日本は恵まれていると思う。ただ、国民一人一人がもっと(少なくとも2割以上の)個性を発揮する心がけを持てば労せずして理想の国家を築き上げることができると思う。何も過去の伝統を捨てて「全て個性」を目指す必要はないし、民主主義を誤解して「みんな同じ」になる必要もない。過去の伝統のすぐ近くに目指すべき理想の国家があるのである。


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