オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

東日本大地震の経過を見て、

2011年04月16日 | Weblog

気になっていることがあるので忘れないうちに書き留めておきたい。

 事故に関して何でマスコミが同じ内容の情報を繰り返していたのかである。どこの放送局も全く同じ内容を繰り返していたし、どこの内容も全く同じであった。一局くらいはバラエティーか音楽か娯楽・スポーツ番組を流しても別におかしくないと思うのだが、とにかく大地震、津波、原発事故一色であった。こんな状況なら、国営放送のNHKが単独で放送して、他局は放送する必要はないんではないかと思った。同じ放送内容ならはっきり言って無駄である。結局は情報源が同じである事に尽きるが、それでもその情報に対する分析や解説は独自性を出してもいいし、当然ながら独自の情報収集努力をすることも必要であろう。海外の動向も気になるところであるが、結局は発災直後から当分の間はそんな情報発信は全くなかった。

通常であれば、放送局や新聞社が異なれば独自性を発揮して結果として多様な報道が可能になるはずである。

 何故多様性が発揮されないんだろう。どの報道もステレオタイプで、切り口も処理の仕方も表現も一律で、まるで金太郎飴であるし、どのような内容の報道でも金太郎飴的に処理してしまう構造がある。たぶんこのほうが楽に番組や紙面を埋めることができるし、分業に任せていれば自動的に番組や記事が出来上がるのかもしれない。しかし、何かおかしい。たとえば、本当に視聴者が欲している情報を伝達しているか、被災者の立場に立って報道しているか、読者が的確に判断するために必要な内容を網羅しているかと考えると、どうもそうではない。右から左に受け売りで情報を垂れ流している感があるし、その報道による影響がどのようになるのか、果たして真実を的確に伝えているかと振り返ってみると、なかなかそうではなくて、かえって不必要な不安を煽って風評被害を招いている。

政府や公的機関の発表を鵜呑みにしてはならない。

 発表内容を正確に伝えることは重要だし、発表があったことは事実である。そこに反論するつもりは全くない。しかし、視聴者の代表として疑問点は明確にして、報道する立場としては視聴者に疑問の余地がないように、また、不明な部分は明確に不明と伝えるべきである。解決策が見出せないもの、明確に断言できないものが存在するのも現実には当然の事であり、ここを有耶無耶にしてはいけないと思う。報道者は自分達が理解した事しか伝える事ができないし、理解していない未消化なものを垂れ流すのは害を及ぼすばかりである。たとえ公式の発表があったからといって、これを間違って解釈して伝達されたのでは、もしくは誤解されるような形で伝達されたのでは視聴者は混乱するばかりである。発表があったのは事実だから事実に基づいているのだろうが、伝える内容が別のものになっていたのでは本末転倒である。

例えば、放射能の測定値の報道がある。

 政府の定めている基準値は「平常時」の基準値であり、自然放射能程度の数値に抑えられている。「緊急時」の基準値は別にあり、最悪でもこのくらいまでは人体に影響はありませんという数値である。基準値は状況に応じて変わるのである。これを「基準値」を勝手に変える政府に不信感を持つ報道をするのは間違っている。政府が事故のレベルを5、6、7と変更したことも非難の的になっているが、事故発生当初は正確な状況がつかめなくて、一般的な状況から危険度の判断をせざるを得ない。少なくとも最初から「レベル7」とすることなんか到底無理である。各種の観測データとおおよその事故の収束のめどがついたところで正確なレベルが判定できると思う。政府もその辺の説明をしっかりすべきであるし、マスコミは不足部分を補足すべきである。まだ事故は収束していないし、もしかしたら、状況が好転したらレベルは更に修正されるかもしれない。

測定値の報道の仕方にも問題がある。

 シーベルトは通常毎時であるが、時々年間の蓄積分で報道されることがある。報道ではすべて「シーベルト」で済まされる。シーベルト/時なのかシーベルト/年なのかを注意して受け取らないととんでもない誤解を生む。通常人体に影響を及ぼすのは1シーベルト/時からである。1シーベルトの放射線を1時間被曝すると影響が出る。少なくとも報道の中で「1」のオーダーは聞いたことがない。多くてミリ単位であり、普通はマイクロ単位である。このくらいの放射線は人体にほとんど影響を及ぼさない。それなのに大騒ぎしている。短期間であれば100から200ミリシーベルトくらいまでの放射線は人体に効能があるという研究結果もある。ラジウム温泉や、自然の太陽光からの放射線は健康に問題ないどころかかえって健康を促進している。それよりもタバコや排気ガスや有害物質や公害による発ガン効果の方がもっと問題である。

日本の報道が多様化しないのは日本国民にも問題がありそうである。

 日本国民は報道が多様化することを欲していないのである。反対に画一である事を望んでいる。間違いのない情報、誰もが納得する情報、大多数が支持する情報、を望んでいる。反対の言い方をすると自分で決断しようとしないのである。決断を大多数の他人に委ねるのである。その決断の結果を知りたがっているのである。国民がそうであれば報道もこれに呼応して「決断の結果=政府や公的機関の発表内容」を忠実に伝達する事となる。報道は主要な事には触れずにこれに関する影響の少ない話題や専門家の解説、市民の声、現地の生の情報、などを取材して報道するだけとなる。なんか「この道はいつか来た道」となりそうな気がして心配になってくる。日本国民よ、自分で理解して判断して決断しようよ。報道機関は独自の情報で多様性を目指そうよ。民主主義の世の中なんだから・・・。


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